子(し)、仲(ちゅう)弓(きゅう)を謂(い)いて曰(のたま)わく、
犂(り)牛(ぎゅう)の子(こ)、騂(あか)くして且(か)つ角(つの)あらば、
用(もち)うること勿(な)からんと欲(ほっ)すと雖(いえど)も、
山川(さんせん)其(そ)れ諸(これ)を舍(す)てんや。 

犂牛(りぎゅう)というのはダメ牛のことで、騂(あか)くして角ある牛というのは、祭りのいけにえにふさわしい立派な牛ということだ。 

普通に考えれば、これはたとえであって、ダメな親の子供であっても人格が立派であるなら、社会は評価するだろう、というこになるだろう。 

しかし、このセンテンスだけを考えれば、孔子の考えはある種の楽観主義だ。様々な時代の、様々な社会状況によっては、犂牛の子が、赤くて角があっても、祭りで拒否されるということがありえる。 私は、現代日本はかなり公正な世界だと思うけれども、この日本でさえ、犂牛の子であるだけで拒否されるということが全くないとはいえない。  

では、孔子の
「犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸」
という言葉は言いすぎなのだろうか?  

私はそうは思わない。 

論語の言説によって、この世界全体を持ち上げることができたなら、犂牛之子は救われるであろうし、救われた犂牛之子は、さらにこの世界を持ち上げるための力となるであろう、ということだろう。  このような力の循環というものが、世界を持ち上げ、社会のハイレベルな秩序を維持するということはありえると思う。  

西洋人は日本の秩序を不思議がる。 

なぜ神を信じない人たちが秩序を維持できているのか? 西洋人は世界を簡単に考えすぎている。 実際問題として、社会を維持するのに、神とか必要ないんだよ。  

救われたものが救う、救われた犂牛之子が、世界をめぐり救われない犂牛之子を救う。 そのような循環さえあればいい。 
孔子の言う「道」というのは、この循環のことだろう。

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