伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)有(あ)り。  
子(し)、之(これ)を問(と)う。  
窓(まど)より其(そ)の手(て)を執(と)りて日(い)わく、之(これ)を亡(ぼう)せん。 
命(めい)なるかな。  
斯(こ)の人(ひと)にして而(しか)も斯(こ)の疾(やまい)あるや、
斯(こ)の人(ひと)にして而(しかも)も斯(こ)の疾(やまい)あるや。   

弟子の伯牛が不治の病に侵されて、孔子はそっと窓から伯牛の手をとって、彼の不運を嘆いた、という意味だろう。 

そう、ここの部分だけ読むと、確かに弟子の不運を嘆いたと、それだけの意味になる。伯牛はライ病だったという説があり、孔子は弟子思いのいい人だね、というだけの意味になる。  

論語のそれぞれのセンテンスというのは、それだけで判断されるものではなく、論語の世界観に従って判断されるべきもので、さらにそのように判断された各センテンスが論語世界観をさらに高めていくという、高められた論語世界観が、各センテンスをさらに高度に判断していくという、全と個が互いに強化しあう重層システムになっている。  

このように論語を考えた時に、「伯牛、疾有り」を、孔子は厳しい人であったと同時に優しい人でもあった、と考えるのは、一つの考えではあるけれども、通過点に過ぎない。   

「窓よりその手をとりていわく、これを亡せん、命なるかな、この人にしてこの病あること、この人にしてこの病あること」  

孔子は、神、鬼、天、そのものを語らない。天命は語るけれども、天そのものは語らない。このような孔子の考え方を、運命論だと判断する人もあるだろうけれども、私は孔子を運命論者だとは思わない。 論語の世界観から判断する限り、この人間世界の社会秩序というものは神から与えられたものではなく、人間個々人のそれぞれにもつ何らかの力を、人々が寄り合って寄り合わせて、社会を形成し個々人はその社会の中で生きていくという、社会秩序はその構成員の力に依存しているというものだ。 
このような考え方は、運命論でないことは明らかだろう。 

論語世界において、神や天が判断するのは、個々の価値基準などという瑣末なものではなく、存在そのものなんだよね。だから孔子は、存在そのものを判断するところの神や天そのものを語らないのだろう。  

これは諦念というレベルの思考ではなく、存在条件そのものの判断に属する。 ここまで考えて、以下の文をもう一度読んで欲しい。 

「窓よりその手をとりていわく、これを亡せん、命なるかな、この人にしてこの病あること、この人にしてこの病あること」 

世界に突き放されるということはある。突き放されても、人間はこの世界で生きなくてはいけない


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