夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ

とは、

「先生の道はまごころのみ」

という意味。


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しかしこれは孔子の言葉ではなく、孔子の弟子の曾子の言葉である。
里仁第四の十五の全文をあげてみる。


子曰わく、参(しん)よ、吾(わ)が道は一(いち)以(もっ)てこれを貫く。  
曽子(そうし)曰わく、唯(い)。  
子出(い)ず。  
門人問いて曰わく、何の謂(いい)ぞや。  
曾子曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。  


孔子が

「一(いち)以(もっ)てこれを貫く」

と言っているのを門人が理解できなかったので、孔子の言葉を曾子が分かりやすく言い換えて

「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」

と言っているわけだ。



これ正直、孔子の言葉と曾子の言葉が全く同じであると考えてしまうと、論語を読んでも全く面白くない。二つの言論のどこがどう異なっているのか、を考えてみるのが楽しい。

では、
 
「一(いち)以(もっ)てこれを貫く」 

の解釈なんだけれど、簡単に考えると、孔子は一つの信念を持ってこれを押していく、みたいなことになると思う。 しかし、このように考えると、後のつながりがおかしくなる。まず門人は、なぜこのような簡単なことがわからないのか?  

さらに、 曾子が、

「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」

 すなわち、

「先生の道は、まごころとおもいやりだ」 

と言ったときに、孔子の発言と曾子の発言との整合性が取れていない。曾子の方が、いいこと言っちゃってるみたいなことになっている。 

曾子というのは孔子の弟子の中でもかなり優秀な部類だ。論語の中での曾子の発言を見れば明らかだ。

 孔子の発言の上をかぶせて、曾子の、「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」という言説は歴史に残った?  本当にそうなのだろうか? そもそも、孔子の「吾(わ)が道は一(いち)以(もっ)てこれを貫く」という言葉を、簡単に考えすぎていないか? 

一以てこれを貫く、一以てこれを貫く、一以てこれを貫く。  

一って本当に一つの信念という意味なのか? 一って、ただ一という意味ではないのか? そもそも私たちは、なぜ一を一だと思うのか?   それは、私たち個人がそれぞれ一体性を持って、一がどこにあっても一だと認識できるからだろう。 

子供に聞いてみよ。
 
彼ら彼女らは、1+1=2ということは分かっている。しかし1万+1万=2万と言えるかは怪しい。 それは、彼ら彼女らに1がどこまで行っても1だという確信がないからだ。なぜ、その確信がないかというと、彼ら彼女らには、いまだ自分が自分であるという自己同一性が与えられていないからだ。これは笑えない話で、大人になっても、1が1であると確信できず苦しんでいる人が多いと思う。1が1であると確信出来れば、すなわち、自分が自分であると確信できれば、ブランドの時計を腕に飾ったり、美人の彼女を連れて歩いたり、仕事の出来る振りをしたり、自分よりトロいやつを求めたり、そんな必要はないのだから。   

一以てこれを貫く、というのは、現代的な言葉で言うなら、自分の自己同一性をてこに、世界の自己同一性を確立する、自分と世界との間の道を貫く、という意味ではないか。 はっきり言って壮大な話なのだけれど、論語には巨大な何かを受け止める力があるよ。  
一以てこれを貫く、と言った孔子の巨大な思想を、夫子の道は忠恕のみ、と曾子が分かりやすく説明した。 このように考えてこそ、論語の正統な読み方だろう? 



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