柄谷行人の言う憲法9条の根拠とは、まず第一に、日本人の江戸時代平和的鎖国の記憶、第二に、「9条にある戦争放棄は単なる放棄ではなく、国際社会に向けられた贈与」というポトラッチ理論、最後にカントの「世界共和国」の3つだ。 柄谷行人の特徴というのは、その論理に飛躍があるということだろう。彼の「日本近代文学の起源」というのを読んだことがあるのだけれど、全ての章が飛躍の結論を待ち構えている。  彼の文章をはじめて読むと、この飛躍がかっこいいみたいになるんだよ。やはり飛躍は飛躍であって、時間と共に釈然としないものがたまってくる。 今回の柄谷行人の話にしても、始めて彼の文章を読む人は感心するかもしれないけれど、慣れている人にとって見れば、またアイツの飛躍かみたいなことになるだろうと思う。  まずカントについて。日本の憲法9条というのは、アメリカから天下ったものであって、日本国憲法草案を作った人の中にカント信者がいたのではないか、というのが流れとしての合理的推論だと思う。 しかし、カントの世界共和国という概念は、哲学というより希望であって、整合性の根拠が全くあいまいなんだよね。このカント哲学の根拠のあいまい性を補強したのヘーゲルの歴史哲学だった。すなわち、カントの世界共和国という観念だけでは、憲法9条を支えるには力不足なんだよね。 憲法9条というのは、カントから来ているのに、カントが力不足というのだから、話にならない構造になっている。  つぎの憲法9条の補強材料、ポトラッチ。私はそもそも思うのだけれど、無条件に他者に贈与すれば、無条件に他者から認められるなんていうお気楽論理がありえるのかな。ポトラッチで二つの社会集団が仲良くなったとしても、そもそもポトラッチ以前に二つの社会集団間に何らかの関係性が有ったと考えるのが普通だろう。大事なのはポトラッチではなく、自己と他者との潜在的な関係性だろう。これもちょっとどうか。   そして最初の江戸時代の平和的鎖国って言うやつ。 江戸時代の鎖国というのは、日本人の無意識でというのではなく、明が鎖国政策をしていたから、幕府もやったということではないのかな。江戸幕府が鎖国政策を敷くにあたって、彼らなりの意識的な損得勘定があったとだろう。時と共に、それらが忘れられていったというだけの話で。 世界帝国に従うのが日本の無意識だということも言えるだろうけれど、それをいったらおしまいでしょう。  すなわち、柄谷行人のいう憲法9条の根拠全ては飛躍なんだよね。