「行人」を2日で読むんだから、私も暇だよね。 トラック荷物の納品待ちの時間とかで読んじゃう。同僚とかはスマホゲームとかやっているのだけれど、正直あんなものやる気にならない。この世界でショボイのに、架空の世界でかっこつけたって意味ないと思う。  「行人」って、「こころ」と相似形だろう。語り手の目上の人が、ちょっと神経質な人で、その人をめぐる長文の手紙が巻末を飾るという。 「行人」において、語り手の兄である一郎という人物なんだけれど、はっきり言って彼は神経症だろう。正しいことが完璧に社会で行われていないと悩むとか、気持ちは分かるけれども、このようなきっちりした考え方というのは、精神衛生上よくないだろう。そしてこのような考え方を押し付けられる方も迷惑千万だろう。 確かに、文明論的な考え方も出来る。日本は列強の圧迫の中、明治維新以降、植民地化の回避のために戦ってきた。それが日露戦争以後、列強にも日本の実力が認められて植民地化はほぼ回避された。日本の独立という大きい目標が達成された後の時代に、何らかの虚無感みたいなものが現れるということはありえる。日本独立のために頑張っていたのに、独立が達成されたからといって、急に頑張ることをやめることは出来ない。何のために頑張っているのかという疑問が沸いてくるということはあるだろう。 「行人」の発表というのが大正元年だから、このような文脈で語り手の兄である一郎という人物を判断するということは可能だろう。  目標なしで頑張りすぎで精神衰弱になったみたいな話だ。  この論理を「こころ」に当てはめてみる。「こころ」という小説では、「先生」自らが自殺の理由を手紙に書く。この「先生」も神経症だろう。神経症患者自身が書いた告白というものは、主観的真実としてはともかく、客観的真実としては認められない。「先生」自身は、その手紙の中で、自分の自殺は20年前に自殺した友人に対する罪悪感だといっているけれど、これは主観的真実であって、客観的真実というのはおそらく、神経症が高じて自殺しようとする時に、20年前に自殺した友人を思い出し、それを自身の自殺の理由だと確信してしまった、ということだろう。神経症が発症して意識レベルの低い状態になると、あいまいなことでも確信してしまうということがあるんだよね。 「こころ」の「先生」の自殺の理由というのは、このあたりだろう。    語り手の兄である一郎という人物、苦しむ彼をみんなで救ってあげようというのが「行人」の結末なのだけれど、はっきり言って彼は救いようがない。彼は自分が救われることばかりを考えている。妻に救われたいとか、弟に救われたいとか、求めるだけで救われるなら誰も苦労しない。絶対即相対とか、チャンチャラおかしい。   経験的に自らを救おうとするものは必ず救われない。人を救おうとするものだけが、救われたり救われなかったりする事実があるだけだ。