前編、後編の2部作制で長い映画なのだけれど、暇と心の余裕のある人は十分に楽しめるだろうという、一定レベル以上の映画だったろう。   内容は、基本的に警察ミステリーだ。  (以下の文章にはネタバレがあります)   普通、警察ミステリーというのは、警察と犯人との戦いの話なのだけれど、この「64(ロクヨン)」は、警察、犯人、被害者の三つ巴になっている。 私は、映画という表現形式は、「整合性とその根拠」を必要としていると考えている。警察ミステリーというジャンルの場合、「整合性とその根拠」というのは、近代社会の刑法という形ですでに与えられている。というか、ミステリーというジャンル自体が、近代表現形式の小説や映画に対して「整合性とその根拠」を簡単に与えるために開発されたものなのではないかと思う。   話は戻って、この「64(ロクヨン)」という映画の場合なのだけれど、被害者という視点を導入しているので、単純に法律的正義のみを押し出すのは難しくなっている。代わりに、整合性の根拠を提供しているのが、娘に対する父の愛、ということになる。 被害者は、そもそも誘拐犯に娘を殺される。 犯人は、犯行の14年後において2人の娘がいて、被害者にロックオンされた犯人は、娘を被害者に狂言誘拐される。 主人公の警察官、彼には娘がいるのだけれど、引きこもりの末現在行方不明という。 すなわち、娘を失った、もしくは失いそうな父親たちが、協働して一つの世界を構成しようとしているわけだ。「64(ロクヨン)」という映画世界内では、娘を持つ男こそが価値なんだよ。娘を持たない男は端っこ寄ってろみたいなところはある。  「64(ロクヨン)」という映画の「整合性とその根拠」は、父と娘との関係性としての娘というこになる。 私には娘が二人いる。高校二年と小学二年。たしかに可愛い。かわいいのだけれど、もし私の娘が誘拐された場合、この「64(ロクヨン)」の被害者や加害者のように、全身全霊で私が娘を心配できるかというと、ちょっと疑問だ。現実問題として、娘って神様とかそういうものではなく、普通の人格だ。一緒に生活すれば、トイレに行けば飯も食う、いびきもかけば寝言も言う。 現実に娘を抱えている立場から言えば、この「64(ロクヨン)」という映画は、娘というものを持ち上げすぎているという感覚はある。  まあ、だからといって、娘というものを持ち上げられることが気分が悪いといことでもない。  娘は神ではないけれど、天使ではある。