「巧言令色鮮し仁」(こうげんれいしょくすくなしじん) 

飾る者は仁が少ないという意味。
仁を直接説明するのではなく、仁的でないものをまず排除しようという論語的文章。

学、徳、仁、君子、道などの概念において、それにふさわしくない事象を排除することによって、互いの関係性が、より緊密に循環することを孔子は期待しているのではないだろうか。選ばれた概念の循環が、この世界の秩序をより強固にすることを、孔子は願ったのではないだろうか。  

もし「論語」を、整合性のない教訓集だと考えたとするなら、「論語」にたいした価値はない。
ヘーゲルやウェーバーが、論語を評価しなかったのも、このあたりに由来するだろう。  

しかし本当に「論語」は、整合性のない教訓集なのだろうか?  
私は違うと思う。  
確かに、「論語」の主要概念である、学、徳、仁、君子、道、などのものに明確な定義はない。孔子は、例えば仁を問われた時に、問うた人によってその答えが違ったりしている。 

トータルでどう考えるかということなのだけれど、私は、学、徳、仁、君子、道、などの概念が、個人をめぐって互いに影響しあっているので、一つの概念を一人の個人に一つに固定するということが、孔子には構造的に出来なかったということではないだろうか。  

中国は今では一つだけれど、2500年前は異なっていた。孔子の生きた春秋末期というのは、大国の間に小国が分立するという時代だった。これって、今の世界と同じだろう。  

このようにある世界が、どのように秩序を維持できるのか。 これについての渾身の言説が「論語」だと思う。 「論語」とは、この線に沿って読まれなければならない。  
ヘーゲルやウェーバーは、こういうことを言うとなんなのだけれど、ちょっととろかったね。中国古代をなめすぎだ。同時に古代ギリシャを持ち上げすぎた。

関連記事