「こころ」という小説は、どうもわからない。いろいろあったとしてもだよ、20年もたって自殺しようというのはないと思うんだよね。   まずこの小説はおかしいことだらけだ。   まず、「先生」の友達のKが、女に振られたから自殺するんだけれど、こんなのまずない。女に振られたからって自殺していたんでは、命がいくつあっても足りない。私なんて何回死ななければいけないんだ、ということになる。  これを乗り越えたとして、「先生」はなんで先生なんだ?  主人公の青年が、彼のことを先生と呼んでいるから「先生」なのだろうけれど、「先生」は尊敬できる部分がなにもない。中年無職、生涯ニートの暇人だし。 これも乗り越えたとして、最後のあの手紙。いくらなんでも長すぎるだろう。私があの量の手紙を貰ったら、まず怖くて読めないね。 これも乗り越えよう。 青年は「先生」のことが個人的理由でとても好きだったとして。  そして最後、「先生」が自殺する理由というのが、自分と妻との三角関係で、20年前に自殺したKに対する贖罪だという。最初に言ったけれども、これはない、これだけはない。20年ってかなりだよ。私は20年前に結婚したけれど、結婚した経緯というのはよく覚えていない。私は、妻が「結婚すれば」と言った記憶があるのだけれど、妻に聞くと、私のほうが結婚しようと言ったらしい。20年たつと、本当に真実は闇の中だ。 「先生」、何が悪かったのかというと、毎月、Kの墓参りをしていたことだと思う。 これは、あえて理由を探したらだよ。 墓参りなんていうものは、自分の前に、親族があって、地域社会があって、それらの思いを自分の後ろに伝える子供があって、始めて意味を持つ。前にも後にも何もないのに、ただ死んだ人を拝むというのでは、「先生」、呪われたんじゃないか。 これは私なりに「心」と言う作品を善意に判断してのことで、普通に考えると、登場人物全員が神経症ということになるんじゃないか。   どういうことなんだろうか。  日本近代文学史上最高の作家とされる夏目漱石の、最高の作品とされる「こころ」の評価がこんなのでいいのかと思う。 そこで、信頼できる評論家の「こころ」の評論を読んでみた。大澤真幸の「近代日本思想の肖像」のなかの「明治の精神と心の自律性」というやつ。 この中で大澤真幸は、「先生」がお嬢さんを好きになったのは、友人Kがお嬢さんを好きになったからだという。友人Kはある種の判定者で、友人Kがお嬢さんを好きになるということは、お嬢さんに価値があるということになる。価値のあるお嬢さんを「先生」が好きになったという。  なるほど、ありえなくはないな。 人が持っていると欲しくなるという論理だろう。なくはないけれども、自分がやりたい女性を人に判定してもらおうという、この「先生」の根性はどうだろう。どこまで奴隷根性なんだ、こうはなりなくないよね。  大澤真幸は、この論理をさらに押して、友人Kという具体的な判定者が、共同体の中でその実体を失い観念のみなったとして、それはその共同体の神だよね、という。そのような第三者の審級のようなものが日本において形成されたのは明治末頃だという。神が、この女はやる価値があるかどうかを判断した後に、男たちはその女のやる価値を受け入れるということになる。  もっともらしいことを言っているように聞こえるかもしれないが、私はそのようなものは認めない。女の価値を付与する神とか、ふざけるな。犬が交尾するのに神様とかが必要なのかよ。人間だって同じだろう。 大澤真幸の論理は、神の存在証明というより、神の不存在証明だろう。