私は昔から、子供のころからだろう、この世界は生きる価値があると思っている。なんでかはもう分からないのだけれど、とにかくそう思い続けている。死のうと思ったことは一度もないし、自分が自分であることを疑ったこともない。 たいした人生ではない。 子供のころは、いじめられっこだったし、両親は、私が若いころ借金残して死んだし、現在は、最低賃金近辺で働くトラックドライバーだし。  子供のころから不思議なのは、「この世界はなんなのか」ということだ。この世界、表面的にはたいしたように見えない。私は、尊敬できる人物とかに今の今まで出会ったことはない。それぞれに人は頑張っているのだろうけれど、それは私も同じだし。  疑問は深まる。  たいしたやつもいないし、自分もたいした人間でもない、にもかかわらず、いったいなぜ私はこの世界が生きるに値することを確信しているんだ?  プラトンの「国家」を読んで衝撃を覚えた。なんだか世界が再編成されていくような。  正義とは何かっていう議論だった。普通に考えると、正義とは誰かに与えられるもの、もうちょっとレベルを上げた考え方をすると、彼我の境界を画定するもの、ということになるだろう。 ところがプラトンは違った。 プラトンが言うには、正義とは、一体性があるところに自然と立ち現れる概念だ、というんだよね。だから一体性こそが正義なんだよ。  いや、これはあるな、と思った。雪の結晶があって、雪の結晶はあのような一体性をそれぞれに形作って、雪の結晶にとってはその一体性こそは正義だろう。  私が、自分が自分であると確信するのは、私の一体性の証だろう。一体性のあるところにそれに内在する正義はある。私が、この世界は生きる価値があると思い続けていたのは必然だったという。 私は、自分が自分であるという確信を、どこから与えられたのかは分からない。 その起源を知らない。 この世界には、世界の整合性、一体性を相対化しようという言説にあふれている。このような言説は、正義を無力化しようとしているわけだ。あなたの正義は本当の正義ですか? みたいな。  私は逆に試したい。 自分ですら起源の知らない、自分の正義、自分の一体性がどこまで耐えられるかみたいな。