一昨日だったか、セテムブリーニの世界観は進歩史観の自由主義で、ナフタはそれを相対化するものだろう、と書いたのだけれど、下巻も半ばまで読んで、だいたい予想はあっていたと感じている。 ナフタはこのようにいう、岩波文庫下巻313ページ「進歩は純然たるニヒリズムであって、自由思想的市民は、ほんとうは虚無と悪魔との人間であって、悪魔的な反絶対的なものを信奉し、死と同然の平和主義を不思議にもなにか敬虔なものであるかのように考える」   ニーチェだと思うね。ナフタのモデルはニーチェだろう。となると、セテムブリーニはヘーゲルということになるだろうか。     ニーチェとかヘーゲルとかいうと、なんだか私達と関係のない迂遠で難しい話のように思うこともありえるだろうけれど、全然そんなことない。ヘーゲル的世界、すなわち進歩史観の自由主義というのは、今のこの世界の事だ。この世界のマジョリティーがどうなっているのかということをヘーゲルは説明しているだけなんだよ。しかしこの世界のあり方というのは、唯一絶対のものなのだろうか。様々な違和感を殺して大勢を受け入れることだけが、大人になる唯一の道なのだろうか。座間の殺人鬼のもとで、話を聞いてもらいたいだけの自称自殺志願者の女の子が2ヶ月に8人も殺されるなんていうは許容されるのだろうか。  様々な矛盾の中で、多くの人が言葉に出来ない違和感を抱いていた中で、現れた言説がニーチェだろう。   そういう意味での、ヘーゲルとニーチェ、すなわち、セテムブリーニとナフタということになる。  この程度のラインに沿ってセテムブリーニとナフタの議論は理解していけばいいだろうし、そこからはみ出るようなところは流していけばいいのではないかと思う。私はヨーロッパ人ではないし、あまり細かいところまで100パーセント理解する必要もないでしょう。

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