下巻も半ばにいたった。 主人公のカストルプ青年が雪山で遭難しかかって、生死の境で天啓がひらめくみたいな。じつは天啓などというものは結構誰にでも訪れるわけで、思索の中でそれをいかに鍛えるかということが大事だったりする。ここからは、カストルプ青年の思想が、セテムブリーニとナフタとの議論の間でどれだけ鍛えられるかということになるだろう。   岩波文庫「魔の山」下巻はブックオフで買ったのだけれど、ドイツ語表記のスイスの地図のコピーが、折りたたまれて挟み込まれていた。クロストプラッツという町がマークされていたりして、「前の持ち主は、かなり気合をいれてよんでんナー」と感心した。 「魔の山」なんて、漫然と読んだのでは面白くともなんともない、水準以上の集中力がないと下巻までは到達できないだろう、という種類の小説だ。ブックオフで感心しながら「魔の山」下巻をパラパラめくってみたら、ちょいちょい傍線が引っ張ってある。ますます感心して、レジに持っていって、「この本、書き込みがあるのだけれど、割り引いてもらえないか」と聞いたら、510円が100円(税抜)になった。 読みながら、前の持ち主はどんなところに傍線を引いたのか、ということも楽しみで読んでみた。  傍線は、「雪」という章の、カストルプ青年が雪山で遭難しかかった場面に集中していた。まず地名。「アムゼルフルーの山塊」とか、「レディコン山系」とか。あとは、スキーにかんするところ。「テレマーク回転方」とか、「カストルプは本通りの専門店でスマートなスキーを買い込んだ」とか、「(スキーは)普通では行けないところにも行かせてくれ」とか。  正直、そんなところに傍線を引っ張って意味があるのかと思うのだけれど、やっぱり人それぞれなのだろう。彼(彼女)にとっては、この部分が「魔の山」を読み切る原動力だったのだろうね。

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