岩波文庫で「魔の山」の下巻に突入。 文庫本下巻の100ページ前後に、セテムブリーニとナフタの、自らの世界観をめぐる議論がある。どのような議論かというと、実際に読んでもらうしかないのだけれど、論理が錯綜していてわかりにくいところがある。 だからちょっと整理をしてみたい。  セテムブリーニの論理というのは比較的明快だ。彼の世界観というのは、進歩史観の自由主義というもので、ヘーゲルとか日本で言えば福沢諭吉みたいな感じだ。 現代においても、進歩史観の自由主義というのはもっともメジャーな世界観であり、現代日本においても、大概の人がこの世界観のラインに沿って、物事の価値判断を行っている。進歩史観の自由主義という世界観から、民主主義、平和主義、国際的連帯などという概念が引き出されている。  この世界観の王様に対して、ナフタは挑戦するんだよ。ナフタは、進歩史観の自由主義を、「無仮定的な非哲学的な自然科学」だという。 どういうことかというと、進歩史観の自由主義者は、自らの世界観を「無仮定的」、すなわち「必然的」な進歩の歴史だと考えているけれども、それは本当に「無仮定的」なのか、実際は何らかの仮定があるのではないのか? というわけだ。 もし何らかの仮定があるとするなら、その仮定が明らかにされた時には、磐石だと思われた「進歩史観の自由主義的世界観」が相対化されてしまうだろう。  ナフタは、あの手この手でセテムブリーニの世界観を相対化しようとしている。だから、セテムブリーニの論理は一貫しているのだけれど、ナフタの論理は錯綜している。トータルとして、二人の議論は理解しにくいように見えるのだろう。  では、進歩史観の自由主義は何を前提として成立しているのか? まあ、その辺を考えながら「魔の山」を読めば、より楽しめるのではないかと思う。

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