「魔の山」は、主人公カストルプがスイス高原のサナトリウムで療養生活を送るうちに、様々な人と出会い精神的に成長していく教養小説、ということになっている。 しかし、実際に読んでみると違うような、まだ400ページほどしか読んでいないのだけれど。  カストルプは療養所生活でどんどん堕落していっている。何で堕落していっているかというと、暇だからなんだよね。療養所だから療養しかすることがないという。療養所ではみんなが暇で、堕落した雰囲気みたいなものが充満する。療養所生活が長くなると、だんだん堕落的雰囲気みたいなものに感化されてくる。 まあ、「恒産無くして恒心なし」 というわけだ。 日本においては、金持ちの子息が通う大学のサークルなんかが、同じような感じではないかと思う。  カストルプは療養所で女性を好きになるのだけれど、この女性がよく言えばアンニュイ、悪く言えばだらしないみたいな女性で、この恋がカストルプをさらなる怠惰に押し込んでいく。 トーマスマンはこの恋をこう表現する。 岩波文庫397ページ「その恋情は、きわめてそこはかとなとない茫漠とした気持ち、一つの想念、、ひとつの夢であり、無意識ではあってもはっきりと提出された「なんのために?」という疑問にたいしてうつろな沈黙のほかに答えを与えられなかった青年が夢見た恐ろしい夢、無限に誘いよせる夢であった」  この部分は、「魔の山」の最初の方の、「私たち人間は、個人生活を営むだけではなく、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な基礎を自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じることは、大いにありえることである。私たちの全ての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から納得できるだけの答えを与えられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にもまれな英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。カストルプ青年は、そのどちらも持ち合わせていないといういみで、やはり平凡であったと言うべきだろう」 という言説に対応している。  「なんのために?」  この世界を「なんのために?」生きるのかという疑問に時代が答えようとしないから、状況次第で人間は怠惰な世界に落ち込んでいくことがありえるということになる。

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