主人公のカストルプ青年は、セテムプリーニにこのように語る。 「つまり、病気と愚かとではぴったりとしません、しっくりしません。私たちはこの2つを結びつけて考えることをしていません。愚かな人間は健康で平凡でなくてはならないし、病気は人間を洗練し、賢くし、特殊にするはずだと考えられています」  そういえば昔、結核信仰というか、結核はかっこいいみたいな風潮があった。現実の結核というのは悲惨なのだけれど、イメージとしてね。 これは日本においては、徳富蘆花の不如帰(ほととぎす)あたりから始まったのではないか思う。 現代文学で言えば、「ベルサイユのバラ」のオスカルも結核だった。文学作品に出てくる結核というのは、単に死のフラグであって、実際に結核自体で死ぬことはない。 病気、結核、という観念と、洗練された知性というものが、つながっていたんだよね。この二つには普通に考えれば断絶があると思うのだけれど、この相容れない「結核」と「洗練」を結びつけたのは貴族性だと思う。 連想ゲームというわけではないのだけれど、「結核」~「療養」~「閑暇」~「貴族」~「洗練」 みたいな。 結局どういうことかというと、貴族のイメージというものが過大に評価されていたということだろう。このような貴族の残滓は現代にも残っていて、高級車とか高級ブランドなどが売れ続けるのも、同じ文脈だろう。   カストルプ青年は、おかしげなことを言っているようで、実は誰もがとらわれている奇妙なこだわりを告白しているにすぎない。  これに対してセテムプリーニは、敢然と反論する。  「病気は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが病気であり、病気に導く考え方です」  まあ、正論だね。  言葉を入れ替えれば、同じ正論をいくつか作れる。  「暇は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが暇であり、暇に導く考え方です」   「高級車は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが高級車であり、高級車に導く考え方です」   「ブランド物は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものがブランド物であり、ブランド物に導く考え方です」   カストルプ青年とセテムプリーニとの間には、世界観の対立みたいなものがある。まだ物語は始まったばかりなのだけれど。

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