「魔の山」は1924年出版だが、内容は第一次世界大戦前(1914)という設定になっている。

トーマスマンは主人公のカストルプ青年を平凡だという。

では平凡とは何なのか? トーマスマンはすばらしい答えを用意していた。以下に引用するが、注意深く読んで欲しい。

「私たち人間は、個人生活を営むだけではなく、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な基礎を自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じることは、大いにありえることである。私たちの全ての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から納得できるだけの答えを与えられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にもまれな英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。カストルプ青年は、そのどちらも持ち合わせていないといういみで、やはり平凡であったと言うべきだろう」   

全く明快な凡庸についての定義だと思う。  

べつに凡庸でも悪いというわけではない。「なんのために」と問いさえしなければ、一つの世界を絶対だと思って暮らして死んで、何の問題もない。しかし、「なんのために」という問いにとりつかれたなら、2つの世界観が必要となるだろう。福沢諭吉みたいに、「一身にして二生を経るが如く、. 一人にして両身あるが如し」のような。    

蓮實 重彥の「凡庸な芸術家の肖像」という本を昔読んだことがあるんだけど、この凡庸な芸術家というのは、マキシム.デュ.カンという人のこと。 

蓮實 重彥はマキシム.デュ.カンの凡庸さを延々と書いている。では、マキシム.デュ.カンは誰と比べて凡庸なのかというと、フローベールに対してなんだよね。しかし、フローベールの非凡さを書かずしてフローベールの友人の凡庸さを長々と描くなんて、蓮實 重彥ってもったいぶらせすぎるだろう。ちょっとはトーマスマンの率直さを見習ったらいいと思う。 蓮實 重彥は最近、フローベール論というのを出したらしいけれど、ちゃんとフローベールの非凡さ、すなわち、フローベールの2つの世界観を説明しきっているのだろうか。

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