大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』 1986年発表。 

大江健三郎の出身地である伊予の喜多郡の神話、歴史、を口伝の物語として自身にひきつけ、それを大江健三郎のヒーロー、「いーよー」につなげて行くという内容。

ノーベル賞対象作品というのも、問題ないレベルだと思う。

伊予の喜多郡の山奥の村の、口伝としての昔話に出てくる亀井銘助というのは、深谷 克己の「南部百姓命助の生涯」で描かれている命助を、そのままスライドさせている。
南部百姓命助自体は、明治維新の先駆けみたいな存在だった。

大江健三郎が「命助」をこの物語に採用したということは、何らかの国家主義的な意味を、この物語に練りこもうとしているのだと思う。

大江健三郎という人は、左派の知識人というイメージがあるだろうけれど、私はそうは思わない。強烈に日本の田舎くさいところがある。

彼の小説は、主人公が都会人の仮面をかぶっているというのも多いのだけれど、最晩年にいたって、大江健三郎は土着の日本に回帰してきたのだろうと思う。

喜多郡の農民が大日本帝国に戦いを挑んだからといって、大江健三郎が無政府主義者というわけではない。主人公が暮らす村があって、そこの村人達は独自の神話をもって、一体感の中で暮らしている。 大日本帝国と主人公の暮らす村との対立というのは、大きい一体性と小さい一体性との対立であって、全体と個との対立というものではない。小さい村の一体性というものがあるのなら、それは幸せなことだろうと思う。

私も西日本の小さい街の生まれだけれども、私の子供時代においてすでに、地域で神話を共有するなんていうことはなかった。こんなクソつまらない田舎から早くそとに出たいとばかり思っていた。

たぶん日本のどこでも似たような雰囲気だったと思う。小さい一体性というのは多くの場所で失われた。小さい村の一体性というものがあるのなら、それは幸せなことだろうと、私は思う。
小さい一体性が回復できるのなら、それは悪いことではないし、日本という大きい一体性を特別ないがしろにしてもいいというものでもないだろう。

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