もう20年ほど前か、北海道の美瑛の肉牛牧場で1年間働いたことがあった。この前の台風で美瑛川が氾濫危険水域を越えたとあったけど、美瑛川なんてあったかな。うちの牧場の近くを流れていたどぶ川は、あれはただのどぶ川だよね。美瑛川ではないよね。                                                 夏場は観光客が多くて、何回かショベルで丸めた巨大な草の塊をトラックに載せるところを写真に撮られたことがあった。観光客は純粋で、うちの牧場の近くを流れる川のそばで、                              「この川の水は飲めますか?」                                                   と聞かれたことがある。                                                      「やめた方がいいと思いますよ」                                                 とは答えておいた。実際すく上流に牧場があるし。                                      かなり大きい牧場で、短期労働の男の子女の子あわせて15人ぐらいいたかな。みんないい人たちばっかりで、もちろんロマンスなんていうものもある。私もそこで女の子に告白された。私の人生で最初で最後だ。元気で可愛いい二十歳ぐらいの女の子だった。女の子からの告白って、直接というのではなく友達を通してみたいな感じなんだよね。まあ、一回しか体験したことがないから、普遍的なことは言えないのだけれど。                    しかしこれまったくもったいないことに、私はもうすでに結婚していた。妻を川崎に残してひとりで勝手に美瑛に働きに来ていたという。私もクズではなかったんだね、じつは私結婚しているのでごめんなさい、みたいな感じでおつきあいをお断りした。                                                         いろんな人がいた。ただみんな純真でやさしくて。かっこつける必要なんてない、なぜなら世界の中心というのははるか彼方にあって、全くの辺境の地で自分を大きく見せてもしょうがないからね。                                                       北海道の夏は涼しかった。7月には草原に大量の赤とんぼが飛んでいて、                      「もう秋?」  という感じだった。草原というのはたとえではなく本当の草原。牧場が美瑛のあちこちに牧草畑を所有していて、夏になるとその牧草を回収しに行く。牧草といっても見た目はただの草。その草をロールべーラーで丸めて、トラックで回収して回る。私はショベルでトラックにロールを乗せるのをやらせてもらった。トラックも30分に一回ぐらいしか来ない。巨大な牧草畑のど真ん中で、ひとりぽつねんとして赤とんぼを眺めていた。    北海道の冬はクソ寒かった。日中でも氷点下だから、一度降った雪は春まで融けない。樹氷というのも見たけど、別にキレイだとも思わない。これだけ寒いと木も凍るよねと思っただけ。                     冬に牧場の外をショベルで走っていたら吹雪になった。3メートルぐらい先が見えない。世界は真っ白。ショベルも裸ショベルですごく寒い。逃げ出そうかと思ったのだけれど、逃げるところなんてない。何とかショベルで20分ぐらい走って牧場にたどり着いた。                                                    人生には逃げ出すことのできない場面というのがあるんだな、と思った。                      どこでもそうなのだけれど、美瑛の牧場にも奇妙な人というのは一定数いた。                       その筆頭はやはりあののオジサンだろう。私が牧場で働き始めて半年ぐらいたった時、40歳ぐらいのオジサンが牧場に新しく入って来た。身長は165センチぐらいのすんくりむっくりの体型で、目はどんよりしていて性格もかなり気の弱いような感じだった。これだけだと普通のダメオヤジが来た、というだけなのだが、なんとこのオヤジが小学4年生の女の子を連れていた。さらにこの女の子、将来はかなりの美人になるのではないかと予感させるような顔つきで、礼儀正しく性格は控えめ。牧場には従業員のための食事つきの寮があって私もこの親子もここで生活していたのだが、この女の子は食事の後お父さんの夜食のために大きいおにぎりを3つほど握っていた。         牧場の社長には小学5年の孫娘がいて、孫娘と女の子はすぐ仲良しになったみたい。牧場には社長の飼い犬がいて、よく2人と一匹で遊んでいた。この犬には自分の犬小屋の上に登って降りられなくなるという特技があって、2人で我が家の上で遭難した犬をよく助けてあげていた。                                    3ヶ月くらいたって、この親子は突然いなくなった。牧場って楽な仕事ではないから、人が突然やめるということはある。しかし一人者なら話も簡単なのだが、親子2人で日本の辺境を流離うというのはありえるのだろうかと思って