ヘーゲル「歴史哲学講義」の中にこのようにある。

「世界に生きる主観として全体の動きに関心をもち、一般的な目的にしたがって行動し、法律を理解し、そこに満足を見いださなくてはならない」

このようなレベルの国民が現れるためには、かなりの歴史の積み重ねがなくてはならないとヘーゲルは言う。

国家と個人の一体性が互いに強化しあうような社会というのは、ついに近代ヨーロッパに現れたところの、ハイレベルな世界観だという。

ヨーロッパ中心主義だとは思うけれども、西洋の威力の中でもがいた日本の近代の事を思い返すと、一概にヘーゲルの言説をヨーロッパ中心主義だといって否定することも出来ない。  

しかし、そのようなことを考える時、福沢諭吉のことを思い出す。一体彼はどこから現れたんだ?  

一身独立して、一国独立す。 上の人間にペコペコして、下の人間に威張り散らすようでは、人格が確立しているとはいえない。そんなゴム人間が形成する国家というものは、他国と伍して独立を保つというのは難しい。

福沢諭吉は、このようなことを言っていた。これが共感を呼んで、「学問のすすめ」は、明治において空前のベストセラーとなった。

ヘーゲル流に考えれば、日本には明治初期にはすでに、ある程度の共同体意識と平等意識というのが、すでに存在していたということになる。
さらに言えば、共同体の善意と、それを信じる強い個人のセットというのが、日本には少なくとも明治初期にはあったということになる。

近代世界へのレールというのが存在していたわけだ。その後の日本の歴史がそれを証明した。 
結局、ヘーゲルの歴史哲学の枠組みというのは、ちょっと大げさだった、ということはいえるのではないかと思う。


関連記事