「歴史哲学講義」の序論まで読んだ。 読んだのはいいのだけれど、47歳にもなってヘーゲルを読んで、何なのかって思う。そもそも今、ヘーゲルなんて読んでるやついるのか。

年をとるとエネルギーがなくなる。若い時は徹夜でゲームとかやっていたけれど、もう全くゲームなんてやる気にならない。音楽も一切聴かなくなった。ブルーハーツとか好きだったのだけれど。

ただ残ったのは、古典を読むという、これだけだ。ヘーゲルを読んで新しい発見が出来れば、また明日生きる意味が立ち現れるだろうみたいな。

「歴史哲学講義」なんだけれど、ヘーゲルにしてはすごく分かりやすい言葉で書いてある。学生向けの講義録みたいな感じで、これでヘーゲルを理解できなければ、救われないだろうという、逆にハードルがあがる感じ。

内容を私なりに解釈してみる。

ヘーゲルは、近代において人間は自らの自由を認識するにいたったという。近代人には、自由というものが無条件に与えられているとするなら、これは自由主義だ。ヘーゲルは、自由主義を根本に論理を展開していくのかと最初思った。読み進めると、ちょっと違うなという。

自由とか正義とか、このような概念は、何らかの実体があるというものではなく、自己の一体性が確立した所に立ち現れるメタレベルの概念なんだよね。自由や正義を人間が認識するためには、その前段階として、何らかの価値体系が必要だ。だから自由主義の自由や正義感というのは無条件に与えられてあるという考え方は、そもそも間違っている。

このへんをヘーゲルはどうするのか、と思ったのだけれど、さすがヘーゲル、歴史哲学とは歴史を前提とした哲学であって、歴史を持たない人間集団は歴史哲学体系から排除するという。

すなわち、歴史や国家を持った民族は、ある一定の自己同一性を備えているはずだから、その前提条件を持ってヘーゲルは歴史哲学を語ろうというわけだ。

エリートの哲学だな。
エリートの哲学というと、ヘーゲルには申し訳ないような。

ヘーゲルは出来るだけ誠実な語り口で、個人の自己同一性が、国家の自己同一性へと展開していくはずだという。 だから、個人の自己同一性の実現というのは、ヘーゲルの願いなんだと思う。前提ではなく祈り。

誠実な哲学者には、その論理のどこかに祈りがこめられているものだ。

自由主義は個人の自己同一性に依存している。個人の自己同一性が祈りであった時は、自由主義には力があった。しかし、個人の自己同一性が自由主義の前提となったとき、リベラルは力を失い始めたのではないだろうか。

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