自由主義やリベラルという立場は、物事を合理的に判断しようとする。これは別に悪いことでもなんでもなくて、合理的に判断できる能力があるのなら、その能力を生かして何の問題もない。  しかし一歩踏み出して、この世界は合理的であるはずだとか、自分が合理的であるから他人も合理的であるべきだ、とか考えるようになると、これは政治的立場ということになる。  この世界は合理的であるはずだ、というのは合理的な推論だと考える人も多いと思う。例えば、E = mc2という公式があって、宇宙のどこに行ってもE = mc2は成り立つという推論があるとする。否定の仕様もない、当たり前としか言いようがない。 しかし、注意深く考えると、この推論には一つの前提がある。   何らかの確固とした認識能力を備えた統一体が、E = mc2が宇宙のどこにおいても成り立つということを確認できるはずだという。 このような確信というのは何から来ているのかというと、自分は自分である、という個人的な経験に依存している。 そして、自分は自分であるという確信は、全く無条件に与えられるものだろうか? 明らかに違う。 例えば、分裂病患者は、自分が自分であるという確信を持てずに苦しんでいる。  分裂病患者は極端な例だけれども、人は大なり小なり、自らの人格の統一性に不安を抱くものだよ。  ところが、自由主義というものは、自分が自分であるという自己同一性が、誰にでも近代教育なるものよって与えられるはずだという奇妙な信念を持っている。  近代が始まってかなり時間もたつのだけれど、あのレベルの教育で、誰もが完全な自己同一性を持てるはずだと考えるなら、そいつはかなりおめでたいだろう。  すなわち、自由主義というのは、別に何らかの真理を体現しているわけではなく、ある程度のプレッシャーのもとでも自らの自己同一性を保てる人格的強度を持つことのできる人間集団を意味するに過ぎない。そのような人間集団が、無条件に価値を持つというわけではなく、その価値判断は、所属する社会の趨勢に依存する。    前置きが長くなったのだけれど、清沢 洌の「暗黒日記」はかなり優秀で、かつ条件に恵まれた言説だから、これをこのまま信じると、ほとんど洗脳みたいなことになりかねないことを心配した。