清沢 洌とは戦前の外交評論家であり、その日記はリベラリズムの一つの頂点とされている。  リベラルとは何かというと、近代世界において、進歩の潮流の中、人は教育によって救われるという考え方だ。一つの見識だと思うし、この原理によってすくわれたという人は、ある一定数いるだろう。 しかしリベラルの論理は、この世界に深く浸透して当たり前の事とされる場合が多い。これが我慢ならない。  仕事でよくあるのが、自分の考える知的レベルに到達していない人を簡単に否定してしまうという場面だ。合理的なことさえいえば、誰もが理解して当たり前だという奇妙な前提を振りかざす。  言えば分かる、なんていうことが常時実行されるのなら、神経症患者なんて存在しなくなるだろう。必要とされているのは、自分の世界観ではなく、自分と相手とを巻き込む所の世界観なんだよ。  一つの確固たる世界を、誰もが同じように認識するべきだというのであれば、それはリベラルの堕落だ。世界を簡単に考えすぎている。   清沢 洌は、日記を読む限りかなり上等の人物だとは思うけれど、リベラルの堕落に片足を踏み込む場面もある。1943年5月31日の日記、「もっとも一般民衆には、そんなことは疑問にならないかも知れぬ。ああ、愚民なる大衆」。  総力戦とは、この愚民も巻き込んで戦わなくてはならないのではないのか? こじゃれた会社なら、使えないやつは切り捨てればいいよ。しかし、日本が、愚民だからといって、日本人を切り捨てることは出来ないだろう? 日本の一体性を再生するための総力戦だろう? 必要とされているのは、日本の一体性を補強するためのギリギリの言説であって、教育によって誰もがインテリになるべきだなどという、馬鹿げた単純性ではない。