「大江健三郎自選短編」のあとがきに、大江健三郎は自らの短編を、その古い順番で読んでいくと、戦後日本の精神史になっていると書いてある。   

大江さん、またまたご冗談を。  

大江健三郎の小説世界は、精神史とは対極にあるだろう。精神史とは、イデオロギーの遍歴に伴う時代の雰囲気の変化の記述方法であって、大江健三郎の小説世界の本質とは何の関係もない。  

では、大江健三郎とは何者か。 

大江健三郎の小説世界の本質は、救うものと救われるものとの「いれかわり」だと思う。これは日本の古い記憶だよ。

和辻哲郎は、「日本神話においては、祭られる神は同時に祭る神だという性格をどこまでさかのぼっても備えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる」と書いている。ここにおいては、祭られる神は同時に祭る神であるという構造が重要なのであって、いかに祭られるかということは重要ではない。祭る方法というのは、その時代の様々なイデオロギーを採用して問題なし、という態度だ。  

大江健三郎の小説世界は、この日本神話の方法論をそのまま採用しているだろう。彼の小説の中では、西洋の洒落た作家、詩人などが引用される。ダンテ、ブレイク、マルカム・ラウリー。しかしこのような言説は、体系となって大江作品の根幹を支えているというわけではなく、日本神話特有の空洞を埋めるための素材の単なる集合に過ぎない。飾りみたいなものだ。  

当たり前の話であって、大江健三郎の小説世界の本質が、「自分」とイーヨーとの関係性にあるとするなら、ダンテやブレイクの言葉がイーヨーに届くはずはない。イーヨーは難しい論理を必要としていないのだから。  

「火をめぐらす鳥」という短編の中で、大江健三郎が、幼いイーヨーを肩車して林の中を散歩する場面がある。

イーヨーは知的障害者で、いまだ言葉を発しない。鳥が鳴いていて、大江健三郎は「何の鳥が鳴いているんだろうね」とひとりごちた。すると天空から、

「それは、クイナです」

という声が聞こえた。イーヨーが始めて喋ったという。 

これって、日本書紀にも同じような話があったと記憶する。私が日本書紀を読んだのもかなり前だから、どこにこの話があったのか指摘することも出来ないのだけれど。 
大江健三郎は、ブレイクについては語るけれど、日本書紀については語らない。  

明らかだと思う。  

大江健三郎の小説世界の本質は、古い日本の記憶の側にあるだろう。  
大江健三郎の出身地というのは、伊予の喜多郡の北東部。もう土佐に近いところだ。宮本常一の「土佐源氏」を読んでみてほしい。西日本を高みから見下ろす秘境みたいな場所だ。 
大江健三郎という作家は、戦後日本の都市中産階級を代弁する者ではないと思う




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