大江健三郎は、デビュー作から、「この世界で人はいかに救われるか」 ということを書いてきたと思う。そして、子供に知的障害児が生まれて、小説のテーマが「この子は、この世界でいかに救われるか」というところに収斂する。 

これは難しい問題で、正直、口に出してはいわないけれど、障害者やボケ老人なんてこの世界にいない方がいい、なんて思っている人はかなり多いと思う。   

しかし「新しい人よ眼ざめよ」で、ついに論理は逆転する。  

学校の合宿に出かけるとき、大江光さんは、父大江健三郎にこのように言う。  

「しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをよく切りぬけるでしょうか?」  

救うものと救われるものとの逆転。  
知的障害者の息子が、戦後日本を代表する作家の父親の魂を救うという。けっして奇跡ではなく、大江健三郎が誠実に子供の声に耳を傾けた結果ではあるだろう。   
「新しい人よ眼ざめよ」のなかでは、大江光さんとの会話以外にも、いろんなことが並立的に書いてある。ブレイクの詩がどうだとか、二十歳のころ付き合っていた女性と20何年か後に再開しただとか、キリストの救いだとか、最後の審判についてだとか。  

まあそのような逸話は、たいした意味はないだろう。いうなれば、大江光さんの言葉の引き立て役ということだ。  

すばらしいよ。渾身の文学だと思った。  

大江健三郎が、反核の言論を唱えたとする。それは核がある世界よりない世界のほうがよりいいという程度の話であって、そこにたいした意味はない。力強い息子の言葉に救われるであろうぐだぐだの父親の役割を果たしているのだろう



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