太宰治の「トカトントン」は、日本近代文学の一つの到達点だと思う。

日本とは何か、近代とは何か、文学とは何か、ということが、この短編に凝縮されている。日本においての小説という形式における最高峰だろう。  

終戦時の玉音放送という最高に厳粛な場面の後で、主人公の青年は「トカトントン」いう金槌の音を聞いたら、急にテンションが転換して何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまうという。

後はこの繰り返し。

だんだんと「トカトントン」と聞こえる頻度が短くなってくるという。   

そもそも、想い出というのは何に依存しているのかというと、過去に経験した事実ではない。まず当時の雰囲気を思い出して、その雰囲気に属している記憶が次々と喚起されるという。このことは、ゆっくり考えれば、誰もが思い当たることであるだろう。 

記憶というのは雰囲気に依存している。 

「トカトントン」とは、この雰囲気を破壊するメロディーだ。  

太宰治のうまいところは、この「トカトントン」という音が聞こえる前の雰囲気を盛り上げる場面で、渾身の言葉を繰り出すところだ。  

「厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか」  

この言説は、「トカトントン」の落ちにつながっていてすばらしい。この落差が、大日本帝国の落差を表現している。   

雰囲気が変わることによって人生が変わるということはある。  

江戸と明治を両方生きた福沢諭吉は、

「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」 

と言った。

これはどういうことかというと、時代の雰囲気が変わることによって、個人の一体性の根拠ですら変動するということだ。戦前と戦後でそのような根拠の変更があってもおかしくないわけで、このことを太宰治は「トカトントン」という言葉に集約しているわけだ。   

「トカトントン」は今の時代にも当てはまる。  

生涯未婚率についてなんだけど。 
バブル崩壊以前は生涯未婚率5パーセントの時代だった。よっぽどのダメ人間でない限り結婚程度は出来るだろうという雰囲気だった。ところが現在は、生涯未婚率20パー超で、これが30パーめがけて上昇しているという。ここ30年のうちのどこかで時代の雰囲気が転換した。

生涯未婚率の転換というのは、日本においては200年ぶりの事だから、現代の日本においては、一身にして二生を経るが如くと感じたり、、「トカトントン」の音を聞いたりした人はかなり多いと思う。

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