読んでいない本を堂々と語るためにはどうすればいいかというと、結論から言えば、共同体内に存在するであろう共有図書館的なものを把握して、本の共有図書館における位置を知るということだ。そもそも「堂々と語る方法」なのだから、その本の真理を知る必要はなく、本どうしの関係性を知れば、語るには十分だ、ということだろう。    このことは、実は本に限らず、教養とされるものならば何にでも当てはまる。多くの人は「知ったかぶり」をしている。しかし、共有図書館的なものを把握しさえすれば、無条件に「知ったかぶり」をしていいかというと、そのようなわけではない。二つ条件があって、一つは、共同体内においてある一定以上の知的レベルであると、みなから認められていなくてはならない。狭い共同体内で一定以上であると認められる一番簡単な方法は、弱いやつを貶めるということだ。こいつは自分よりダメだから、逆算すると自分はある一定以上ですよね、というわけだ。   もう一つの条件というのは、この世界における価値というものはすべて相対的なものだと確信することだ。価値というものはそれ自身の中に存在するのではなく、周りとの関係性のうちにあるとして、これを堂々と語るためには、この事について確信していなくてはならない。   確かに、この二つの条件をクリアーできれば、この世界でよろしくやっていけるだろうとは思うのだけれど、個人的にはこれらの条件は受け入れられない。とろいヤツも引っ張りあげられなくてはならないと思うし、価値とはそれ自身の中にあるとしか考えられないし。    読んでいない本について堂々と語る方法というのは、ピエール バイヤールの考えているのとは別にもう一つあると思う。  本をランク付けする。Aランク、Bランク、Cランク。 それで、Aランク本の価値観に従って、そのほかの本の価値の序列を作る。慣れてくると、本をさらっと読んだだけで、この本にはAランク本の価値観がどれだけ付与されているかがわかるようになる。その本の価値を知っているわけだから、堂々と人にも語れるという。   ここで問題なのは、Aランク本を何にするかということなのだけれど、個人的意見としては「孟子」と「プラトン」だ。 本の価値というのは、読んで面白かったとか、ワクワクしたとか、そのようなものではない。読んで面白いとか、そのようなものは自分と本との関係性であって、Cランク本の評価の話になってくる。Aランク本というのは、その巨大さ、その重力、によって決まるものであって、個人が勝手に決めるようなものではない。  しかし現状は、誰かが決めてくれるわけでもないから、個人の客観性で判断して、Aランク本を「孟子」と「プラトン」にしている。