竹田 青嗣 「ニーチェ入門」 は、ニーチェをヨーロッパ思想史のなかにうまく当てはめながら、分かりやすく説明している。 

竹田青嗣は、ニーチェの思想には

「近代の世界観を相対化する」
「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」

ということとの2つのテーマがあるという。フーコー等のポストモダニズムの思想家は、この前者「近代の世界観を相対化する」ことについては取り組んでいるのだけれど、後者「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということについては沈黙しているという。  

それはある。私もそう思う。  

しかし何故フーコーが、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」というテーマに触れることが出来なかったのかというと、これはフーコーの能力不足というより、ここを掘ってしまうと必然的にヒトラーの思想に行き着いてしまうから、ということだったと思う。 

竹田青嗣 「ニーチェ入門」 においても、ニーチェとヒトラーとの関係というのが、全く薄い論理で否定されている。ニーチェは反ユダヤ主義者ではなかったとか、ニーチェの作品内でナチスよりの言説が多いのは、ニーチェの妹がこれを編集したからだとか、正直話にならない。  

アカデミズムが、自らの正当性を守るために、あったことをなかったことにするなんて、ちょっと感心しない。そのようなことは、ニーチェが一番批判したことではないだろうか。   

私が、ヒトラーとニーチェとの関係性について説明する。  

ニーチェ以降の実存主義系統の哲学者が目指した 「近代の世界観を相対化する」 とは結局どういうことなのか。結論から言うと、近代世界というのは、当たり前に存在するのではなく、人間存在に関する一つの前提があるということだ。ある世界観に前提があるということは、その前提を変えれば世界は変わるだろうから、前提を発見するということは、世界を相対化するということになる。  

では、私たちのこの世界の前提とは何か?  

それは、自分が自分であること、自己の一体性、自分と他人とは明確に異なる、などの自己同一観念は当たり前であり、人間なら誰もが持っているはずだという信仰だ。  

このような信仰から、民主主義や人権観念というのは発生している。人間は成人になると、自然と自分が自分であると認識するようになり、少なくとも最低限の大人にはなる。だから、成人にはほとんど無条件に政治参加の機会や基本的人権が認められているわけだ。  

このような世界観というのは、一つの見識ではあると思う。この世界の前提を発見したとしても、とりたててこの世界の整合性に不都合がないのなら、その前提をそっとしておくという考えも成り立つ。  しかしなかなかそういうわけにはいかない。  

この世界の弱点というのは、「自分が自分である」ということが当たり前になっているから、「自分が自分である」ための訓練などというものはしない。よって、自己同一性の怪しいようなやつまで、ジャンジャン同じ社会に参加してくる。この社会というのは、「自分が自分である」ということが前提されているわけだから社会的プレッシャーがきつめで、脱落者が多く出る。社会から脱落する同胞が多くなれば、それだけ社会の生産性は落ちてくる。それでいいのかという議論は当然でてくる。 

これがニーチェの、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということにつながってくる。この問題を大きく解決しようとしたのがヒトラーだ。ヒトラーは、自己の同一性なるものは無条件に与えられるものではなく、自らが勝ち取るものであると、国家がその枠組みを与えるべきだと主張した。このような枠みにそって、ヒトラーの「わが闘争」のなかには近代世界観を相対化し、さらにドイツのニヒリズムを克服するためのアイデアが多数存在している。  

ニーチェは、ニヒリズムを克服するために「力への意思」という漠然としたことを主張したけれども、ヒトラーは、ワイマールのニヒリズムを克服するために、国家の一体性、個人の一体性の強化を主張した。「力への意思」というものを、一体性への志向と理解したのだろう。ヒトラーの論理は正しい。近代以降、個人の人格の一体性が空洞化しつつあるから、そのあたりを国家主動で再編成しようというわけで、きわめてわかりやすい論理に帰着する。  

ヒトラーは彼自身としては失敗したのだけれど、ニーチェの思想を現実の政治世界で実践して、現代にまで総力戦思想という巨大な影響を及ぼしている。  

ニーチェとヒトラーを切り離してしまうと、哲学のみを論じるアカデミズムにとっては快適かもしれないが、ニーチェそれ自身の価値というは、極端に低下すると思う。


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