前回、近代以降の世界においては、「自分が自分であるという自己同一性」が当然の前提とされている、と書いた。 これについて、別の切り口で考えてみる。  例えば、「正義」について。  正義とは何かを現代的に表現するなら、個体間を調停する者、ということになるだろう。しかし、この程度の概念レベルだと、「正義」と「正義の振りをするやつ」との区別がつかない。だから現代社会においては、「正義」と「正義の振りをするやつ」とは結果が同じだろうから、その辺の区別はあいまいでかまわないということになっていると思うよ。  ところがプラトンは「正義」と「エセ正義」とを峻別しようとした。どのような論理を展開したかというと、正義の定義として、個体間を調停する者では甘いというんだよね。 個体がそれぞれに確固とした自己の統一性を確立するならば、個体間を調停する者など必要ないだろう、という。すなわち、正義とは自己の統一性を確立するそのこと自体にあるという。  自己の統一性をめぐる問題というのは、その社会の世界観を決定する力を持つ。 現代は、自己の統一性を当然の前提として成り立っていて、かつての時代は、自己の統一性は社会的鍛錬によって獲得するものだとされていた。これは、どちらがいいとか悪いとかそういうものでもないと思うのだけれど、社会の安定的継続性という点においては、現代社会のほうに疑義が存在するだろう。自己の統一性という、一見当たり前なのだけれど実はあいまいなものに根底をおく近代以降の世界が不安定化したのは、ある意味当たり前だ。  しかしその不安定化のあり方というのが、古代と同じ感じで、すなわち同様のパターンがある。   その繰り返す歴史のシステムについてはまた今度。