近代は古代を繰り返している。 これを考慮に入れて、近代と近世の違いを考えてみたい。  私は思うのだけれど、近代における最大の特徴というのは、「自分が自分であることが無条件に前提とされている」 ということだろう。自分が自分である、なんて当たり前だと思うかもしれないけれど、実はそうではない。実際、現代日本で神経症や分裂病という、自らの精神の一体性を保てないという病気で苦しむ人が何百万人と存在している。神経症、分裂病予備軍を入れれば、その数は何倍にも膨れ上がるだろう。  現代社会が何故このように大量の神経症、分裂病患者を抱えているかというと、社会が「自分が自分であるという自己同一性」を当然視することによって、過重な労働、過重な学習を強要しているからだ。  日本において、明治期以前は人格教育というものがあった。人格教育とは、突き詰めて言えば一体なんだったのかというと、社会システムと連動しながら「自分は自分である」という確信を養成するものだったろう。これをあまりに養成しすぎて、「自分が自分である」ということが、当たり前になってしまった時に近代は始まった。「自分が自分である」ということを土台にして、自分はこの世界で何が出来るのかということを、人間は考え始めた。もっと労働が出来るよねとか、もっと学習が出来るよねとか、その土台の上に様々なものを乗せはじめた。  この世界は自由だといわれている。しかしそもそも自由とはなんだろうか? 結局、現代の自由というのは、岩盤とされる土台の上にいろんなものを乗せる自由なんだよ。  「自分が自分であるという自己同一性」というのが岩盤とされているのだけれど、実はこのようなものは岩盤でもなんでもない。その証拠に、はじめに書いたのだけれど、神経症や分裂病の患者が、日本だけで何百万人も存在している。   このことをトータルで考えるとどうなるか?   「自分が自分であるという自己同一性」という状態が、何らかのエネルギーだとするなら、近代から現代に至る私たちは、近代以前の先人達が蓄えたエネルギーを消費しながら社会の一体性や発展性を維持しているということになる。  はたしてこれは進歩なのだろうか?  プラトンが言うように、堕落なのではないだろうか?  人間の歴史に何らかのシステムがあるとするなら、システムを理解するというところまでは出来るだろう。しかし、システムの外に出るということは、出来るのだろうか?