「存在と時間」を、すごく中途半端な感じで終わっている。  

人間の認識体制には日常的パターンと本来的パターンと2つあるという。なぜ存在体制が2つに分かれるのかというと、結局、時間認識が異なっているからだという。それで、日常的認識体制の時間認識を明確にすれば、本来的認識体制の時間認識も明確になるだろうということで、日常的認識体制の時間認識の代表例としてハイデガーはヘーゲルを論じる。  

で、ここで終わりだから。  

これでは、第1部の第2編すら完結していないだろう。  

ハイデガーは「存在と時間」を、第2部の第3篇まで予告している。

第3編 時間と存在   
第2部 存在論の歴史の現象学的解体   
第1編 カントの時間論について   
第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について   
第3編 アリストテレスの時間論について    
となっている。  

これは難しいのだけれど、これから「存在と時間」の結末というものを予見してみたい。  

まず 第3編 時間と存在 これだけだと漠然としていてわからない。  

次に、第2部 存在論の歴史の現象学的解体   第1編 カントの時間論について  

ヘーゲルの時間論については、第1部第2編で論じていたから、ここではカントにしぼって日常的認識体制の時間認識について論じようというのだろう。 
いかに近代というものが日常的認識体制の時間認識にとらわれているかを明らかにして、存在論の歴史の現象学的解体を目指そうということだろう。

次に、第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について  

デカルトについては、ハイデガーは第1部第1篇で論じている。ヨーロッパ中世と近代の結節点であるデカルトを、日常的認識体制の時間認識の初期体制として再び相対化しようということだろう。 

最後に、第3編 アリストテレスの時間論について。  

アリストテレスについては、第1部第2編の終盤で多少論じてはいた。 おそらく、近代の存在体制を相対化した跡に、ソクラテス以前の存在体制を多分に含んでいたとされるアリストテレスを解析することで、本来的認識体制の時間認識というものを明確にしようということだろう。  


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