ハイデガー「存在と時間」68節に 「不安の中で、世界の無意義性が開示される」 とある。 

私達は日常生活で極度の不安を感じるなんてない。何故か? 普通に考えると、大人になって経験もつみ実績も重ねて、社会というものを理解したからだろう。

このあり方を別の角度から見ると、社会的常識や何らかの知の体系に寄りかかって生きている、ということになる。  

しかし、常識や知の体系というものは、そう磐石なものではない。 現代人は科学というものに大きな信頼を寄せている。確かに、数学や物理学は一流の学問だ。しかし、生物学とか医学とかとなると、その整合性具合は一段下がる。さらに、精神医学とか社会科学とかになるとさらにその知的整合性は後退する。  
過去においては、骨相学のように放棄された学問体系も存在する。   

多くの知の体系は、我こそは数学と同レベルの学問体系だと自己主張しているのだけれど、実際のところはそういうわけにもいかないだろう。 

私達の誰もが数学者というわけではないのだから、寄りかかっている知の体系が崩れて、「不安の中で、世界の無意義性が開示される」という状態になることは、可能性として誰にでもありえる。
というか、偉そうに語るおっさんは、必ず何かの知的体系に依存している。
やだね、そんなおっさんにはなりたくないね。  

ハイデガーがさらにいっていること、

「当の露呈させる働きは、どのような時間的意味を有しているのだろうか」  

日常の世界と不安の世界とでは、時間的意味が異なっているという。  
これはあるかも。
 

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