戦争の手段としての軍隊を保持しないという、あの9条について。  戦後リベラルの論理というのは、戦争をしないために軍隊を放棄するというところからさらに押して、軍隊がないから戦争がないということになっているのだろう。しかし、軍隊がないから戦争がないという論理は、無条件に与えられるものではなく、明らかに何らかの前提の上に与えられている。 ではその前提とは何か?  戦後、日本国憲法が制定された時、徳富蘇峰はこのように書いた。  「武力を排除したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後における、新たなる試験というのほかはあるまい。ここまでには世界の歴史に、左様なれいは、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかることを平気で、朝飯前の仕事のごとく、言いなしている日本の有識階級は、実に驚き入りたる肝っ玉の持ち主といわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼らの軽佻浮薄の浮動性が、彼らをかりて、ここに至らしめたるものというの外はあるまい」  明治大正昭和を生き抜いた蘇峰は、戦争放棄による平和国家の前提なるものを思い浮かべることが出来なかった。  普通、そうだろう。  戦争放棄による平和国家成立に前提があるのなら、憲法改正を拒否するものは、その前提を明確にしなくてはならない。  私は別に、出来ないことをやってみろと言っているわけではない。 例えばこのような論理はどうか?  中国という国は歴史的に他国を侵略するということに消極的だ。近年中国は強烈に成長していて、すでに経済規模は日本のほぼ3倍だ。日本は中国の影響下に入ることによって、軍隊を保持せず平和を維持することが出来るだろうという、ネオ大東亜共栄圏みたいな。