「存在と時間」にでてくる現存在というのは人間存在のことであると言われる。「存在と時間」の中にもそのように書いてある。しかし、現存在を人間存在と言い切ってしまうと、日本人には現存在についての意味が通じなくなってくるのではないかと思う。

私は現存在を意識存在と言い換えたい。  

キリスト教文化圏においては、人間とは神が創った至高のもので、人間存在と意識存在とは等値なのだろう。ハイデガーもほぼその枠内で語っている。しかし日本においては、人間存在と意識存在とは等値ではない。 

これは日本の方が正しい。 

猿や犬にだって意識はあるだろう。猿や犬は、人間とは世界認識が異なってはいるだろうが、それでも人間に準じた世界認識の形式があるだろう。  

「現存在とは何か?」 とは、結局、「意識とは何か?」 ということになるのではないか。  

普通に考えてしまうと、意識とは何かというのは分からない。これ、なぜ分からないのかというと、意識には外縁がないと思われているからだ。外縁がないから中心もない、内実はどこまでも分割できる。意識の中においては、その始まりも語れないし終わりも語れない。 まあなんというか、宇宙みたいなものだと思われている。 

このような考え方は近代思想であって、特殊な思考パターンだとハイデガーは言っているのだろう。 意識の外縁には、有限個の意味素材があって、それが空間を覆っていて、その覆われた空間が世界であり意識であるとするなら、意識というのは説明可能となる。 
「存在と時間」とはそのような論理で形成されていると思う。


以上の思考は「存在と時間」を読むにあたっての私の技法、自分に引き付けてハイデガーを理解していくための技法だ。
だから、これらの仮説が「存在と時間」という本の枠内において多くの人に認められるほど正しいかどうかは分からない。
でもこうでもしないと、「存在と時間」なんていう書物は読み続けられない。

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