平和主義存在体制と非常時存在体制というものがあるとハイデガーは言う。。ハイデガーは並列というけれども、非常時存在体制のほうが基礎構造だと思う。 

ハイデガーは、総体としての存在体制を表現しようとしたのだけれど、これを平和主義存在体制の視点からだけ見ると、よく分からないだろうとは思う。たとえば、出世競争を勝ち抜いて大学教授になったとして、その地位に大満足だとして、その人に「あなたの満足は様々な存在体制の表層の一つに過ぎないのだよ」なんて言ったって、それでどうにかなるというものでもないだろう。  

平和な時代が長く続くと、逆も考えられる。例えばハイデガーの言っていた強力な言説というのは、じつはある女性にささげられたものだった、みたいな。凡庸な言説が、天才の言説を飲み込もうというよな、平和な時代に、非常時存在体制を平和主義存在体制が飲み込んでしまうように。

たとえ話をしてみる。
「平和主義」というものがある。戦争反対みたいな、憲法改正反対みたいな。

戦後の日本というのは、この平和主義だ。戦後リベラルというのは平和主義を唱えて、さらに自分達が平和主義を唱えることによって現実平和に一役買っていると考えていた。 

私はこれ、論理が逆じゃないかと思うんだよね。戦後の日本に平和というものが設定されていたから、平和主義という言説が存在しえた。だから、平和主義を唱えるだけでは、反論不能の正義を主張しているだけであって、なんら正義に貢献しているわけではなかった。  

これは結局どういうことなのかというと、ハイデガー的に言えば、戦時体制時と平和な時代において、人間社会の存在体制が異なっているからだということになるだろう。平和な時代においては、伝統的な合理性みたいなものが尊重されたりする。

結婚して子供をつくることが価値だとか、会社で出世して役員車に乗るようになることが価値だとか、伝統的合理性とは、まあそのようなもの。そのような合理性が悪いわけではないのだけれど、それは絶対ではなく一つの存在体制にすぎない。

でもね、「存在と時間」はいつもそこにあって、再び命が与えられるであろう時を待っているよ。

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