ハイデガー「存在と時間」のなかにこのようにある。

「カントは言う。私たちの外に存在する事物がまさに目の前にあるということ対して強制力を伴う証明が、哲学にはいぜんとして欠落している」 

これが哲学の醜聞といわれるものだ。  

正直何を言っているのか分からないと思う。

目の前に物があれば、ふつう誰でもその物を、ありありとした実感として、ああここに物があると感じる。そもそも目の前に何か物があるとするなら、それはたいがい自分が好きでそこに置いているわけで、自分で置いておいてその物に現実感がないとか言い出したら、離人症だろう。

この世界に現実感がないと言っている人間に対して、存在感をもたらす強制力を伴うような論理的な説明というものが存在するわけない。潔癖症で手ばかり洗っているような人に、そんなに手を洗っても意味はないよ、と言ったとしてもその人の潔癖症が直るわけではないのと同じだ。 

哲学を買いかぶるな。  

近代以前の西洋においては、存在の存在感というのは神によって保障されていたのだけれど、近代以降、神が力を失って、では神の代わりに哲学が存在の存在感を保証しましょうということになった。しかしそもそも、存在の存在感なんていうものは、誰かに保証してもらうようなものなのか? 日本的に考えるなら、「ある物」の存在感というのは、まあなんというか全体の中から浮かび上がってくるような、全体にも力があるのだけれど、その中の「その物」にはより力があるみたいな、そんな感じではないだろうか。  

このように考えれば、ハイデガーの「存在と時間」は、西洋哲学の中では分かりやすい部類だろう。ヘーゲルとか、私は嫌いではないけれど、思い込みの激しい神経症患者の思い込み日記みたいなところがあるよ。神経症患者の思い込みにシンクロしようとすれば出来るけれども、やる価値があるかどうかは微妙ではあるだろう。   

「ある物」の存在感というのは、まあなんというか全体の中から浮かび上がってくるような、って書いたけれども、ハイデガーの言う「世界内存在」における世界というのは、ある物を全体の中から浮かび上がらせるところのその全体性みたいなことであって、基本的に分かりにくい話ではないんだよね。



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