ハイデガーは、「現存在は世界内存在である」という。現存在とは人間の存在体制の事だから、人間は世界内存在である、ということになる。では世界内存在とは何か。  

普通に考えると、人間は何も知らないまま生まれてきて、周りのからの教育とか、自らの知性や理性などによって、だんだんとこの世界はどのようになっているのかを理解するようになる。大人になって、自分は社会の中で生きているという自覚を持つようになると、すなわち世界内存在。  

これは全然違う。  

ハイデガーの論理は逆だ。人間には初めから世界内存在体制とも言うべき、存在条件のようなものが与えられていて、知性や理性というものも、世界内存在から発生するという。近代以降の常識とは、原因と結果が逆なんだよね。  

どちらが正しいかというのも、判定は難しいのだけれど、私はハイデガーの意見を方を支持したい。   

ハイデガーは、世界内存在の中に情態性なるものが充満していて、私たちはその情態性の海の中で理解したり解釈したりしているという。これだけを言うと何のことだか分からない。ハイデガーは、情態性を気分と言い換えてはいるのだけれど、これはもっと押して、雰囲気とか場の空気とかに言い換えてもいいだろう。  

雰囲気なんて、重要度としては二次的なものと考えがちだ。大事なのは事実だとか結果だとか、そういうものだろう。  

しかしだからといって、昔の事を思い出すときに、事実を思い出した後にその時の雰囲気を思い出すだろうか。  

普通逆だろう。  

私は、あの実家のちょっと甘いような重いような空気を思い浮かべた後に、死んだ両親の笑ったり怒ったりしたあの顔を思い出すよ。何でだろうね。  

今の私の周りのこの世界だって同じなのではないだろうか。ここは雰囲気のようなものに満たされていて、その中で私は思考しているという。

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