ハイデガーは「存在と時間」のなかで、人間存在には、そもそも世界を認識する枠組みが与えられていると考えている。初期条件として人間に与えられた世界認識の枠組みから、啓蒙や知性や理性という内実は発生するという。だから、ハイデガーの言う「世界内存在」という観念は、物事の結果ではなく原因なのだから、きわめて重要な位置づけとなる。  

受け入れにくい論理ではあると思う。
人間は、この世界に生まれて、そのうち世界を認識するようになると普通は考える。人間は、他からの教育と自らの知性や理性によって世界を理解するようになる、ということになる。 

一つ例をあげよう。  

なぜ人は人を殺してはダメなのか? 普通の考え方をすると、法律で決まっているからとか、文明的な教育の結果だとか、人間の理性として当然だとか、まあそんなことになる。この論理を逆転させて、ハイデガー的に考えると、ある一定の枠内で人間は人間を殺さないという世界認識を与えられている、ということになる。  

ハイデガーの原因と結果の逆転というのは、一見奇妙な感じがするのだけれど、よく考えるとそうでもない。  

文明的な教育の結果、人は人を殺さないというのでは、簡単に考えすぎているという感覚はある。ある一定の枠内で人間は人間を殺さないという世界認識を与えられていると考えは、あれ?ここもうちょっといろいろ掘れるのではないだろうかと思わせるものがある。    

私は思うのだけれど、スマホゲームなんかで、ゲーム会社が適当に作ったような世界観にハマるなんて全くの馬鹿だろう。そんなものをいじくりまわしたって何も出てきやしない。この世界のリアルの世界観を問題にした方がましだろう。

架空の世界での意味と、リアルの世界での意味とが等価だなどという論理も形式的には成り立つだろうが、もしそうであるなら、この世界に「意味」という言葉が存在する意味が全く分からなくなってしまうだろう。

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