ハイデガーの解説書とかを読むと、道具存在というものがよく出てくる。道具存在というのは、ハイデガーの中心概念と言うわけではないが、ハイデガーの分かりやすいところではあるだろう。そのような判断で、ハイデガーの解説書にもしきりに取り上げられているのだと思う。
  
ハンマーの存在論。  

簡単に考えた場合、ハンマーが手元にあって道具存在で、人間は道具存在を使う特別な存在みたいな。  

これは違うな。これでは存在論にならない。  

ハイデガーのいう道具存在とは、使っているうちにあたかも体の一部になってくるような、そのような存在の事をいうのではないだろうか。例えば、ハンマーを使っているとして、慣れてくると釘を打つのもうまくなってきたりして、あたかもハンマーの先までが自分の体の一部であるかのような感覚がしてくるというのはありえる。他にも、車を運転していて、車の外郭までが自分の体であるような気持ちがしてくるなんていうのはないだろうか。  

このように自分の体を越えて、自分の感覚が外部に延伸するところの存在、これをハイデガーは道具存在と言っているのだろう。

自分の乗りなれた車だったら、自分も車と一体になりやすくて、すぐに愛車を道具存在と認識するのだけれど、他人の車だって、乗れば全く共感できないわけではないだろうから、ある程度の道具存在とは言えるだろう。こう考えると、道具存在ではない存在って、日常生活においてはあまりないんだよね。周りを見渡しても、パソコン、本、壁紙、蛇口、みんな自分と感覚のつながる期待が持てる道具存在ばかりだ。  

自分の周りの全てが、自分の手足の延長線上のような道具存在ばかりなら、心地よい世界観を満喫することが期待できるだろう。   

ここまでいたって、世界内存在における道具存在の位置づけというのが、かすかに見えてきたような。

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