西洋存在論のあり方というのはプラトンに始まると、ハイデガーは「存在と時間」の中で考えている。西洋存在論というのは、別に難しい話ではなく、

「あるものはある、ないものはない、これが分からないようでは病気」

みたいな感じの、現代日本においても全く普通の感覚だ。

デカルトも「我思う、故に我有」と言った。デカルトの言説は、反論不可能のように思えるのだが、じつはそうではない。

「我思う、故に我有」というのは、「私は思う、その思っている私をさらに思う、そしてその思っている私をさらに思う、みたいな認識の多層構造が自己認識を生んで、故に我有」、みたいな話であって、私が思うとか、その思いがいれこ構造の多層認識になっているとか、多層構造になることによって何らかの実体が生まれるはずだとか、様々な前提条件がある。

「我思う、故に我有」というのは、無条件に正しいというわけではなく、細かな論理の飛躍が積み重ねられて一見無条件に正しいように見えているというだけなんだと思う。  

ではそのデカルトの言説の前提条件はどこから与えられているのか?  
デカルトをここまで導いたものは何なのか?  

どうしてもプラトンということになる。 

ハイデガーは、存在論の歴史の破壊と言っている。古代ギリシャの存在論を問題にしようということだろう。ニーチェが、叩きつけるように書いていた、「プラトンごときが」って。プラトンの思いつきの存在論によってこの世界が確定してしまったという考え方が、ハイデガーとニーチェに共通しているのだろう。

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