今から25年前、二十歳ぐらいの時か、ハイデガーの「存在と時間」を読んで玉砕した記憶がある。

普通に考えると、「存在」と「時間」というのは別個にあって、存在自体を問題にすることに意味があるのか、ということになる。全く自明のことをどのように問題にするのか? これは問題にしようがないわけで、さてどうするか。  

存在というものは問題に出来ないのだけれど、存在感というのは問題に出来るのではないだろうか。  

例えば、私の実家というのは、田舎の古い一軒家だった。二階に上る階段の上から3番目の段が、他の段より少し幅が広くて、子供のころの私に異様な存在感を示していた。その段を踏むか踏まないかは、子供のときの私にとってとてつもなく重要だった。存在感が、上から3段目の存在を支えていることは明らかだった。  

年をとって、存在感というものを感じなくなったのだけれども、もしかしたら今でも存在というものは、見えなくなってしまった存在感によって支えられているのではないだろうか。
    
ハイデガーの「存在と時間」における存在の問題とは、この存在感を問題にしているのではないかという仮説を元に、「存在と時間」を読んでいきたい。

借り物の論理では、本物の古典を噛み砕くことは出来ない。このレベルの本になると、ある程度自分に引付け読んでいかないと、経験上、読解は不可能だ。

岩波文庫で全4冊、トータル2000ページだから、一日100ページ読むとして、読みきるまでに1ヶ月はかかる。ニーチェをほぼ理解できたから、ハイデガーもいけるのではないかとの自負もある。暑い季節になるけれども、明日からハイデガーを汗だくで読むよ。

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