「偶像の黄昏」は、ニーチェの最晩年の著書。  

論旨は明快だ。  

ニーチェを読んでもよくわからないという人も多いと思うのだけれど、普通の視点ではなく、ニーチェの視点から読むようにすればいい。近代以降、メジャーな思考においての世界解釈は、論理と情動とか、合理と情念とかのように二元論になっている。このような構造から、情念を合理性でコントロールするべきだという啓蒙思想も生まれてきたりする。  

ところがニーチェは、論理世界と情念世界をつなく゛ような何らかの精神構造を想定しているのだと思う。今便宜的に、ニーチェの想定した中間精神構造の部分を坂口安吾の言葉を借りて「ふるさと」と呼んでみる。  

本来の人間の論理世界と情念世界は、「ふるさと」によって結合されている。ところが近代以降、「ふるさと」が忘れられてしまって、論理世界と情念世界は懸絶してしまった。二つの世界が離れているのが当たり前だと思うようになった。人間は本来の世界を離れて、虚偽の世界に暮らすようになったから、様々なことが説明できなくなってしまった。  

たとえば「美」  

美しいとはなんなのだろうか。二元論世界における美の説明は、縦と横の比率がある数値になるとこれを黄金比といって美の基準となる、などというものだ。このような馬鹿げきった論理に納得ができるだろうか。

初恋のあの子は何らかの黄金比を体現していたのか?  

私が知りたいのは黄金比なるものではなく、子供のころ、友達と遊びつかれて家に帰る途中で見た、あの悲しみにあふれた夕日の意味なんだよ。    

現代の世界観では説明できないことが多すぎる。何らかのファクターが欠けていると考えるのが自然だろう。ニーチェは近代社会を批判しながら「ふるさと」をあぶりだそうとしている、そのように考えてニーチェを読めば理解しやすいと思う。

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