秦の始皇帝は見事に中国を統一したのだけれど、始皇帝の死後1年で陳勝の乱が起こっている。無理をしすぎたといわれている。  何が無理だったのか。  始皇帝って合理的な思考をする。中国を統一したら、文字を統一する、貨幣を統一する、道幅を統一する、郡県制を採用する、全体に効果があると思えば合理化する。このあたりがやりすぎたところだと思う。  現代においては、合理的思考というものは良いとされているけれども、そもそも合理的思考というものは無条件に与えられたり、訓練によって習得できたりというものではない。合理的思考というのは、「この世界は合理的である」という非合理な信念にって支えられている。  始皇帝は、合理的な行動によって中国を統一したことによって、「この世界は合理的である」という信念が極端に肥大化したのだと思う。  現代日本においても、合理的に考える人ばかりではない。例えば、会社というものは利益を追求するもので、会社社会では合理的思考が尊重されやすいはずだ。にもかかわらず、合理性を超越した変なこだわりを持った同僚はいないだろうか? そんなこだわりは家でやれや、と言ったとすると、怒ったり無表情になったり、全身全霊でくだらないこだわりを墨守しようとするやつってかなりの割合で存在する。  人間というのは、それぞれに世界観というか、価値の序列の体系みたいなものを持っている。この世界観がないと、未来を予測できなくなり、ひどい場合は統合失調症となり日常行動すら不自由になる。この世界観には、合理性というものが無条件に高い価値を与えられるわけではない。変なこだわりを持つ人というのは、人から見てつまらないと思える「こだわり」がその人の世界観においては重要な要素になっているのだろう。こだわっている当人も必死だよ。危ういこだわりが、彼の世界観を支えているのだから。多くの場合、説得によるこだわりの放棄というのは不可能だ。過度の清潔という、どうでもいい「こだわり」が、潔癖症という症状になって現れるみたいな。   合理化の強要で、潔癖症が直らないのと同じで、始皇帝の合理化の精神というものが、同時代人に反感を買ったというのも当たり前だと思う。さらに、会社なら利益という合理化のための指針があるのだけれど、統一された中国世界においては、戦国期とは異なり、明確な結果証明なんていうものは存在しないのだからなおさらだ。