人の精神構造というのは、2層構造になっていると思う。意味というもののない下層構造と、意味の体系としての上部構造と。そもそも世界には意味というものはない。太陽なるものの周りを地球なるものが回っているとして、別にそれに人間的な意味が存在するわけではない。人間世界とは、巨大な宇宙の一角になんとかへばりついて存在しているという程度のものだろう。世界に意味がないということを、人間は心の底で感じてはいるだろう。厳然とした事実だから。しかし人間は、世界に意味がないということに耐えることが出来ない。どのような仕組みかというのは明確ではないのだけれど、人間は「世界には意味があるはずだ」という強い世界認識の傾向を持っている。  この精神的傾向が、様々な世界の様々な時代の世界観みたいなものを作り出したのだと思う。現代日本だってそうだ。現代日本の世界観で、日本人は様々な価値判断を下している。 人間の精神構造として、無意味としての精神下層部で発生する情動を、世界観としての精神上層部で解消するという形になっていると思う。  問題は、この世界観なるものが結構もろいことだ。人間の世界観というものは変更可能だ。例えば、福沢諭吉は江戸と明治の二つの時代を生きて、「一身にして二生を生きるが如し」 すなわち一つの人生で二つの世界を生きたかのようだ、と述懐している。山田風太郎も、戦前戦後を生きて、同じようなことを言っていた。  世界観とは変更可能なのだけれど、なかなかそこまでは思い至らない。自分の信じていた世界観が崩れてしまった時、その後どうしたらいのか分からなくなるということは十分にありえるだろう。現代は精神的プレッシャーの強い世界だから、例えば人から好かれなくてはいけないとか、いつもちゃんとしていなくてはいけないとか、まあそのような脅迫的世界観が崩れてしまった時、行動の指針がなくなるわけで、どうしていいかわからないという行動不能の状態になるだろう。病状が軽度だと意志薄弱、注意力散漫、みたいなことになるだろうし、中程度だと神経症、重度だと統合失調症となって社会生活がほぼ営めなくなる。  私は思うのだけれど、現代日本において軽度以上のの精神疾患が疑われる人というのはかなり多いだろう。自分はそうではないと自信を持って断言も出来ないのだけれど、明らかに意志薄弱以上だろうというひとは、職場にも複数いる。何故そんなことになっているのか。  そもそも「人から好かれなくてはならない」などという程度のレベルの低い世界観自体が問題だろう。人間にとって、世界観とは絶対ではないし変更可能ではあるけれど、無条件に与えられるとかおろそかにしていいとかというものではない。出来るものなら、より強固でより自分にふさわしい世界観を勝ち取ることが望ましい。そこにこそ、この世界の自由は存在する。にもかかわらず、人から好かれるべきだとか、レールを外れるべきではないとか、お金をより稼ぐことが価値だとか、その程度の世界観を頭上に頂くようではどうだろうか。うまくいく場合もあるだろうが、そもそもがクズグズの世界観なのだから、維持するのも大変だと思う。うまく維持できなければ、統合失調症まではいかないまでも何らかの神経症にはなるだろう。  私は若い人の「自分探し」というものを否定しない。人は確固とした世界観を持つべきだ。