何年か前に、高校の同窓会に行ったことがある。私にとっては25年ぶりの集まりだった。私が行った高校というのは、中高一貫の進学校で、すなわち高校の同窓会といっても、中学の同窓会も兼ねている。驚いたのは、医者、歯医者、弁護士、会計士、という職業のやつが多かったことだ。半分以上、そんな感じだった。  聞いてみると、親の地盤を継いでいるわけだ。そもそも親が会計士だったなら、子供にも会計士になってもらいたいということで、子供を中高一貫の進学校に押し込んでいたわけだ。そして子供も親の期待に見事にこたえたという。  悪くないことではあると思う。しかし自由というのはどこにあるのかと思う。  私の親は八百屋で、そんなものを継ごうなどと自分では一度も思ったことはなかった。高校の時も、自分は自由で、世界も自由で、周りの友達も自由なのだろう、と思っていた。ところが高校時代の同級は、自由なようでけっこう型にはめられていたのだなと感じた。  このようなことは、私には耐えられなかっただろう。親が会計士だから、自分も会計士になるなんて、考えただけでも恐ろしい。 普通はレールから外れるのが怖いらしいのだけれど、私はレールに乗り続けるのが怖かった。 一度しかない人生なのに、失敗しないためにレールに乗って人生終わって、それに何の意味があるの、と思った。  中高一貫の学校で、自分は成績もそこそこで、帝国大学の上位校まで行ったのだけれど、途中でやめちゃって、ブルーカラーのトラック運転手になった。それから25年たった。給料は安いけれど、社畜なんていうことはない。ずっと孟子を読んでいる。この世界は生きる価値があるのではないか、とは思っていたのだけれど、孟子を読んで、それは確信に変わった。  正直、危なかったと思う。  あのままレールに乗っていたら、ギリギリの能力を社会に要求されていたのなら、孟子にまで出会うなんていうことはありえなかっただろう。  二十歳のころの自分が抱いた、世界は自由なはずなのに何故か自分のためのレールが存在する、という違和感。あの感覚は正しかった。 この世界の真実はレールではなく自由の方にあると47歳になって確信する。  このような確信は、奇妙とも思えるだろう。  しかし、この世界は生きる価値があるという確信は揺らがない。事実だからしょうがないとしか言いようがない。