この世界が一見合理的に形成されているのは、当たり前のようで当たり前ではないと思うんだよね。尋ねれば答えは与えられるだろうとか、頑張れば報われるであろうとか、この世界に神がいないとするなら、何によってこれらの整合性への信頼というものは個々の人間に与えられているのか。

強力な理念を中心として、社会集団の観念群が合理的に再編成された場合に限り、この世界は予測可能な世界となるだろう。

整合性の取れた予測可能なせかいというものが、無条件に与えられるわけがない。人類の歴史上、どこかで何かが起こったんだ。

合理的な世界観を形成するということを西洋で最初にやったのはプラトンだろうけれども、東洋においては孟子だろう。

この日本世界を秩序付けたのは孟子で間違いない。左翼インテリは、近代日本を形成したのは西洋哲学系だと主張しがちだけれども、そのようなものは信ずるに足らない。借り物の論理で自らを持ち上げるなんていうのはできない。

日本を近代として持ち上げたものが孟子だったとしたら、「孟子」の本文を読めば、たちどころに孟子のすごさというのが分かるはずだよね。そして実際に分かる。

幸いなことに、日本には漢文を読むための書き下し文というものが存在している。これは日本の智恵だと思う。書き下し文で孟子を読んでみよう。孟子はどこを読んでもすばらしいわけだから、適当に選択してみようか。

孟子、万章に語りていわく、一郷の善子はすなわち一郷の善子を友とし、一国の善子はすなわち一国の善子を友とし、天下の善子は天下の善子を友とす。天下の善子を友とするをもっていまだ足らずとなし、また、古(いにしえ)の人を尚論(しょうろん 昔の賢人を評論するの意)す。その詩を誦し、その書を読むも、その人を知らずして可ならんや。このゆえにその世を論ず。これ尚友なり。

本文のこの迫力というのはまさに弾丸だ。意味として、大作家がいて、その作品のことをよく知りたいのなら、作家のみならずその作家が生きた時代そのものを知らなくてはならないと孟子は言っているわけだ。

当たり前のようなことを言っているように聞こえるかもしれないが、これは本当に当たり前の事なのだろうか。世界観が強力に維持されている場合には、孟子の以上の言説は当たり前だ。しかし世界観のシバリが緩んでくるとどうなるだろうか。おそらく、作品とは時代を超越して成立しうるなどという言説が現れてくるだろう。

時代を超越したとされる作品と、この孟子の私が適当に選んだ2300年前の断片の言説と、いったいどちらが時代を超越しているだろうか。

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