人は誰でも善の心を持つという。これを性善説という。

「人皆忍びざるの心あり。幼児のまさに井戸に落ちんとするを見れば、みな惻隠の心あり」

このような当たり前の感情が信念となりえるというのは、ほとんど孟子の発見だと思う。  当たり前の感情、強い信念、浩然の気、明確な世界観、これらのものは一体としてある。

人間はこの世界を様々に解釈しながら生きている。可能性として、その解釈が正しい場合もあるだろうし、正しくない場合もあるだろう。正しい正しくないというのは言いすぎかもしれない。正確に語るなら、その世界観に、実体があるかないかということになるか。

しかしその世界観の実体なるものは何によって保障されるのか。もし何によっても保障されないとなるとどうなるか。もしあらゆる世界観が等価だとするならどうなるだろうか。

孟子の世界観も、現代日本にほとんど無数に存在するスマホゲーの世界観も等価だということになる。まだありがたいことに、孟子とクソゲーとの世界観の差というのは明らかだ。   

「敢えて問う、夫子いずくにか長ぜる。曰く、我ことばを知る。我よく吾が浩然の気を養う」  

少し解説すると、孟子自身は強い志を持つことによって、人の考えていることが分るようになるし、自分の心のうちに強い気力というのが湧いて来ると言っているわけだ。
この考えは一理ある。強い信念を持っているであろう人間は、精力的に見えるし、その人の語る言葉があたかも正しいように聞こえてくる。そのようなことは往々にしてある。

しかしここで問題なのは、その強い信念なるものは何かということだ。これこそがその世界観の真の強さを決定する。自信に溢れた人がいて、その人の信念の根源というものが、例えば親が金持ちだったりとか、自らの学歴が高いとか、仕事が出来るとか、ハゲだとか、そのようなものであった場合、そいつはたいしたことない。いくらでも上からかぶせていく余地ありだ。

空気さえ読まなければ、根拠薄弱なチンピラの論理はいくらでもひっくり返せるというのは、まあ当たり前の話だ。

関連記事