やられたらやり返す、というのはこの世界の基本だと思う。高尚な言葉で言えば、強い意志をもつということになるだろう。一つの意見として、やられたらやり返す、なんていうことをやっていては、例えば会社なんかで出世できないんじゃないの? なんていうのもあるだろう。しかしこのような論理は手段と目的を完全にひっくり返してしまっている。  強い意志を持って世界に挑んだ時に、世界にはじき返されたとして、それは強い意志を持つべきではなかったからだと考えるべきなのだろうか。そうではないだろう。自分には強い意志とは別の、いうなれば二次的な能力が足りなかったと考えるべきだろう。   わかりやすい例をだそう。  私の職場の隣に、知的障害者の作業場がある。作業が出来るぐらいだから、知的障害といっても見た感じ軽度だ。私は彼らと知り合うまで、軽度の知的障害というのは、ただ知能が一般人より若干低いだけなのかと思っていた。しかし実際付き合ってみると、ちょっと違う。軽度の知的障害にも大まかに2種類ある。頭のねじが緩んでいるのと、意思が薄弱なのと。頭のねじが緩んでいるのはどうしようもない。頭のねじを締めるドライバーというのは存在しないだろうから。しかし、意思が薄弱なのは、訓練によって何とかなるのではないかといつも思う。世界は強い、自分は弱い、という二つの観念が究極に固定されたものが、軽度の知的障害と判断される根底になることもかなりの確率であると思う。これは騙されている。自分の力が弱いというのは相対的なものだし、世界が強いというのは事実ではない。世界はあんがい脆い。  私が何を言いたいのかというと、ある種の知的障害者というのは、意思が薄弱だからという理由で、知的障害のレッテルを貼られ、くそくだらない作業場でくそくだらない作業をしていて、そのことは、社会でよろしくやるために「やられたらやり返す」という強い意志を喪失した健常者なるものといったい何が違うのかということだ。   勉強が出来るとか、空気が読めるとか、このような能力というのは、結局二次的な能力に過ぎない。大事なのは強い意志であり、この程度のものは訓練によって獲得できるのではないかと思うんだよね。