表現力って、結局意味の強弱だと思う。だらだら喋っていても、ここぞという時に強烈な表現をはさんでいけば、話は全体として締まってくるだろう。何が強烈な実際的な表現なのかというと、漢詩というこもの行き着く。歴史のフィルターというのは人智を超える。  

杜甫の、「茅屋(ぼうおく)の秋風の破るところとなるの嘆き」という詩がある。内容としては、台風のせいで、家の屋根に乗っけていた茅が飛ばされて、その茅を近所の悪ガキに全部パクられてくやしいみたいな、杜甫50歳の時の詩。  

南村の群童は我が老いて力なきをあなどり  

むごくもよく対面して盗賊をなし  

公然 茅を抱きて竹に入り去る  

唇は焦げ口は渇き呼べどもかなわず  

帰りきたり杖によりてみずから嘆息す  

俄頃(がけい) 風は定まりて雲は墨色  

秋天漠々として昏黒に向かう  

たいしたことは言っていないとは思うのだけれど、内容の割には言葉の量が明らかに少ない。意味が、何らかの力で凝縮されている。これは驚くべきことだ。生きる意味がわからないといって、日本では年間に何万人も自殺している。にもかかわらず、意味というのは存在するだけではなく凝縮されうるという。どうせ漢詩なんて誰も知らないのだから、ちょいちょいパクって会話にぶっこんでいけばいいよ。何それとか言われても、怯む必要は全くない。相手はどうせ根拠なしなんだし、こっちは2000年の意味の歴史をパクっているわけだから、根本的に勝負にならない。