パノプティコンとは何かというのは、ウィキでも読めば直ちに明確になる。私はパノプティコン自体を問題にしようとは思わない。フーコーが何故パノプティコンなる概念を導入しようとしたのかということを少し考えてみたい。  現代社会において、犯罪を犯せば刑務所に入るというのは当たり前だと思われている。しかしそもそも刑務所とはなんなのだろうか、犯罪とはなんなのだろうか。日本でも、近代以前の江戸時代にも刑務所的なものはあった。そして、江戸時代の刑務所的なものと現代の刑務所とは同じものなのだろうか。そのあたりを明確にするための概念としてのパノプティコンだと思う。   フーコーがやろうとしていたことは、結局、罪を犯せば刑務所に入るという当たり前に思える価値に挑戦しようということだろう。パノプティコンとは、フーコーがこの世界の価値をぐらつかせるための道具としての観念みたいなものだよね。  そして、この世界の価値観をぐらつかせたらどうかというと、これが別にどうにもならない。磐石だと思っていた価値観が、フーコーによって磐石というわけではなくなりました、フーコーはすごいですね、パチパチみたいな。  これは本当にすごいのだろうか?  ニーチェも同じようなことをやった。しかし、ニーチェはフーコーほど賢くなかったから、マジで世界の価値を相対化しようとした。ニーチェは自らの狂気と引き換えに価値の相対化を成し遂げた。  ここで考えて欲しい。  フーコーは、価値は相対化できるという可能性を示して知の巨人としての栄誉を満喫した。ニーチェは、実際に価値を相対化して自らは狂気の闇に沈んだ。はたして、ニーチェとフーコー、どちらが本物だろうか。  わかり安く考えてみよう。 フーコーは様々な現代的価値観をぐらつかせるマジックを見せてくれた。監獄の価値観、精神医学の価値観、ほかにもいくつかあるだろう。私達が価値観が揺さぶられる様を見たからといって、それが一体なんだというのか。別に新しい価値の世界が始まるわけでもない。パノプティコンと言ったって、この世界の価値観を相対化する力を失ったら、それはただの知的なアクセサリーになってしまうだろう。