人が時代によって持ち上げられて、そして真理を観るということはありえると思う。現代日本は何十年も平和で、全くクソみたいな時代が継続しつつあるのだけれど、長い未来には真理が再び顕現するということもありえるだろうと思う。  

文 天祥 正気の歌 

天地に正気あり

(天地には正気がある) 

雑然として流形を授く
(様々に物に形を付与する) 

下れば即ち河岳となり
(地においては川や山となり) 

上れば即ち日星となる
(天においては太陽や星となる) 

人においては浩然といい
(人間世界においては孟子のう浩然の気、即ち強烈な正義感となり) 

沛呼として蒼冥に満つ
(この世界にみっしりと満ちている) 

皇路、清夷に当り
(世界が平和であるときは)  

和を含みて明庭に吐く
(穏やかに正義が正義が実行されることもあるだろう) 

時窮まれば節すなわちあらわれ
(困難な時代には正義としての強力な言説が現れ) 

一つ一つ丹青に垂る
(歴史に残る言葉が人類の魂に書き込まれる)  

文天祥の正気の歌の初めの部分。信じるか信じないかという信仰もあると思う。天地には、科学の枠を超えた正義のエネルギーなるものがあるというのだから。もちろんそんなものを信じない自由というのもある。この世界には意味がないという論理はいつでも成り立つ。この世界に意味がないと思うのなら、いつでも安楽死すればいい。しかし、もし少しでも生きる意味があると思うのなら、文天祥の「正気の歌」の続きを聞きたくはないだろうか。そして期待は裏切られない。論理的に裏切られない構造になっている。

文天祥の「正気の歌」って、現代においては右翼の色が着いていてリベラルの人は食わず嫌いということもあるかもしれない。正気の歌を真っ直ぐに読めば、右とか左とか関係ないのは明白だ。  文天祥は感じた。この世界の正気というエネルギーは時において物質に凝固する。思いは叶う、という現象を越えて、思いは厳然たる物になる。中国の歴史上、強い思いはどのような物となったのか。文天祥はこのように書いた。
   

斉にありては太史の簡  

晋にありては董狐の筆  

秦に在っては張良の椎  

漢に在っては蘇武の節  

厳顔将軍の頭と為り  

嵆侍中(けいじちゅう)の血と為る

張雎陽の歯と為り  

顏常山の舌と為る  

或いは遼東の帽と為り  清操、氷雪よりも厲(はげ)し  

或いは出師の表と為り  鬼神も壮烈に泣く  

或いは江を渡る楫と為り  慷慨、胡羯を呑む  

或いは賊を撃つ笏と為り  逆豎、頭、破裂す 
 

別に全てを訳す必要もないだろう。
例えば最初の「斉にありては太史の簡」というやつ。斉というのは春秋戦国時代に存在した有力国家。紀元前何百年かの時代。当時、中国大陸には多くの国家が存在していて、それぞれの国家がそれぞれに年代記を書いていたらしく、国家事業としての年代記の記述は真実を書かなくてはならないという国家同士に暗黙の了解があったらしい。

しかし、自分に都合の悪いことは書いて欲しくないという権力者がいた。まあ、このような者はどこにでもいるだろうが。斉という国で、歴史を改ざんしようとする権力者の横暴を頑として拒んだやつがいた。

「崔杼(さいちょ)、其の君を弑す」

というやつ。
ここは春秋左氏伝で一番有名なところだろう。岩波文庫「春秋左氏伝」の帯に書いてあるレベルだから。太史の簡の太史とは名もなき記述者であり、簡というのは当時の紙の代わりの竹簡のことだろう。すなわち、正気は名もなき記述者を通して竹簡に凝固したということになるだろう。文天祥はこのような事象を重ねているわけだ。  
意味が物に凝固するってありえると思うんだよね。個人的な思いだって、形見の品とか想い出の物とかになったりする。多くの人の協同の想いが竹簡になったとしても何の不思議もないと思う。

よく思うのだけれど、誰もが永遠に生きようとしていないか? お金が大事だなんていうことになっているけれど、永遠に生きようとするからお金が大事になってはくるのだろう。こういうことを言うと申し訳ないのだけれど、ちょっと頭が足りないんじゃないかと思う。  

永遠に生きるなんていうことはありえない。人類史上延べ何人の個人が存在したのかは知らないけれども、誰一人として生物としての人の時間限界を超えて、何百年も生き続けているという個人としての人間というのは存在しない。当たり前なのだけれど、人は生きるということを考えるのではなく、如何に生きるかということを考えるべきだ。
   
  

この気の磅礡(ぼうはく)する所 凛烈として万古に存す 
(正気で満ちるこの世界 正気は時を越え厳然と過去にも未来にもある)  

其の日月を貫くに当っては 生死いずくんぞ論ずるに足らん  
(太陽や月を、正気が貫くほどの時代にあっては、自分の生死などというものは考慮するに値しない)   

文天祥は、その言論を強力に持ち上げてきたと思う。「生死いずくんぞ論ずるに足らん」だって。本当にそうありたいと思うよ。会社での人間関係がどうとか、あの人の考えていることが分からないとか、自分の居場所がないとか、金がいないとか、ハゲだとか、馬鹿が馬鹿を言っているレベルで、自分もそうなのだけれど、全く恥ずかしいかぎりだ。  

時代と歴史をてこにして、詩によって「生死いずくんぞ論ずるに足らん」と確信する枠組みってすごいよね。現代においては、お金を持ちたいとか、人から評価されたいとか、みんな表面的には考えているとは思うよ。でも本音では、何らかの真理とか何らかの正義とか、そんなものがあったらいいなとか、なんとなく感じていると思う。真理とは逆説だから恐ろしい。生きる意味というのは生死を論ずるにたらないところにあるというのだから。



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