漢文とか漢詩とか、興味ある人なんて極めて少数だと思う。 私は、子供のころから文学好きだった。ただどうしても西洋文学、西洋哲学みたいなことになった。この世界を知るには西洋の文学を知る必要があるだろう、みたいな強力なバイアスがあったのだろう。30年以上、西洋文学みたいなものを読んでみて、こんなことを言うと傲慢みたいなのだけれど、西洋の論理構成みたいなものはだいたい分かった。私程度の人間が理解できるのだから、西洋合理性なんていうのも、そうたいしたものでもない。この世界で、それぞれがそれぞれの合理性をより切磋琢磨していけばいい。それによって、お金を儲けたり人から尊敬されたら、よりよい人生なるものを享受できたりするだろう。 そんなことはどうでもいいと思う。大事なのは結局、言葉の迫力、言葉の厚みだろう。意味のための言葉、そんなのじゃない。意味としての意味、言葉としての言葉、積み重ねようとする意志。      そういう意味で、王 之渙のこの詩はたまらないものがある。   「千里の目を極めんと欲して、さらに登る一層の楼」   これだけなんだけれど。しかし、あらゆるものが凝縮されていてすばらしいよ。  千里の目を極めよう、この世界を理解しようとして、合理性の歴史の階段を登っていくという。しかしそもそも、この楼閣、この合理の世界というのはいったい誰が作ったんだ。一人の天才程度のものが作った楼閣に登ったからといって、千里の目は極められるのだろうか。積み重ねに寄りかかるような、諦めるような、王 之渙の世界観がたまらない。    次元が違う。    今の世界意識とは次元が違う。